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起こった出来事が問題なのではなく、それに対する反応の仕方が問題なのである

何が起きたのかが問題のではなく、それにどのように反応したかが問題である。それをつくづく感じる出来事があったので書き留めておきたい。

先日、とある会社の最終面接で選考に落ちた。詳細はぼかすが、丸々2ヶ月という時間をかけられ、3回の面接に合計4時間以上が費やされ(移動時間を含めたらもっと)、適性検査まで受けている。まあ、落ちた理由など知りたくもない。落ちた時点でどうでもいい会社に成り下がるので、そこにいる人たちの評価なんてわたしには全く関係がないので、どうでもいい。さようなら。わたしは、自分の上司の評価は受け入れるが、自分を落とした会社の人事の講評(金輪際わたしの人生に関係のない人の話なぞ)を聞く耳など生来持っていない。新卒採用試験を受けたとき、落とされたうえに、「君の生き方は間違っている」とジジイに説教を受けたのだが、当時も「うるせえな」としか思わなかった。何様のつもりだ。おまえは単なる会社員で、30分面接しただけだぞ。会社組織にいると、ここまで傲慢な老害になってしまうのだ。あな恐ろしや。おまえはただの会社員だ、分をわきまえろ。他人の生き方に口を出せるのなんて、マザーテレサとガンジーぐらいだ。てめえの戯言なんか何の参考にもならんわ。黙ってろ。ちょっと、口が悪くなってしまったわ。ごめんあそばせ。

話を直近の転職活動に戻そう。この会社は、毎度毎度連絡が遅く、急に面接がオンラインから対面になったり、段取りの悪さが目についた。メールの文面も失礼で、人事のその人に能力がないのか組織の問題かはわからなかったけれど、入ったとしても、いろいろ問題は起きただろう、と予見できる会社でもあった。求職者は同僚になる可能性があるのだから、信頼関係が始めから損なわれている会社というのは、お話にならないではないか。結論、落ちてよかった。違和感を覚えていたのだから、縁もなかったのだ。

ただ、待たされた。もやもやしながらも、ほかの応募を並行してやるのはしんどいのでこの会社に入ればいいか、と安直に考えていた。わたしの前職とリンクしつつ、新しい職種に臨める、という珍しい求人だった。ここで決まらないと、決めないと正社員は厳しいかなとプレッシャーも感じていた。でも、やっぱり、そこが弱みとなり落ちたのだろう。選考が2週間ぐらいで終わっていたら、ここまで恨みがましくは思わなかった。だから、待つなって、前から言っているだろう

ここで一旦、仕切り直し。作戦変更である。社会保険完備、交通費支給、手取りが最低20万円になる契約社員か派遣社員にも応募して、2〜3年は職業経験を積むことにしよう。今の契約社員の仕事はワーキングプア水準の給与なので、失うものは何もない。ただ、パワハラで辞めた職場の給与水準に戻すのは、なかなか難しそうだ。年を取ってしまうのも痛い。(性的魅力が落ちるより、子どもが産めなくなるより、おぜぜを稼ぐ機会が減ることの方が、数千倍きつい)

前職の求人もざっと見たところ、大手の求人しかなかった。しかし、その大手も賞与なしの契約社員で、クチコミサイトでは、5年間は契約社員と書かれていた。おそらく1年更新なのだろう。労働基準法的にも微妙ではないか。しかも、正社員になっても退職金がないらしい。じゃあ、責任だけが増えるのか。(まあ、役職手当がつくんだろうけれど、ブラック企業で責任を負わされることほど、わりに合わないことはない)アホか。というわけで、前職に出戻りするプランはなし! 振り向くな君は美しい(©全国高等学校サッカー選手権大会歌)。

で、ここからが本題である。落ちてもいい会社に落とされ、憤慨して、憤死するところだった。頭の中には、怒り狂う自分と、そんなに大袈裟に騒ぐことかと醒めた目で眺める自分もいた。転職活動において、会社と求職者は対等なのである。いや、正確にいうと、金を持っている方が圧倒的に強いのだが、求職者には辞退する自由がある。今、契約社員で低収入だから、こいつなら待たせても大丈夫だろう、と舐められていたのではないか。そのような若干の被害妄想的な怒りと、転職活動を続けなければならない、という面倒くささに怒っていたのだ。

脳の扁桃体が興奮状態にあるせいか、これまでの嫌な出来事が走馬燈のように再生され、ひどく気分が悪くなると同時に相変わらずの自分の打たれ弱さに驚いた。

というか不合格という名の拒絶が、他者からの攻撃であると受け止めてしまうことにそもそもの問題がある。わたしは他人から攻撃されて泣いたりしない。つまらないことでも攻撃されれば、憤怒でやり返す。攻撃されない限りは、攻撃なんて、そんな野蛮なことはしない。わたしが動くのは先制攻撃を受けたときだけなのだ。(なんか自分で書いていて、北朝鮮のようである笑)

で、やっぱり、攻撃だと感じ過剰反応してしまうのは、言い訳染みているとわかっているが、育ち方、育てられ方の問題だと思う。自分をアダルトチルドレンとかトラウマ持ちとか繊細さんとかラベリングやカテゴライズしても、何も解決しないが、理由はそこにあると思う。心の傷や脳みその癖はなかなか治らない。今更まっさらな赤ん坊に戻ることはできない。自分が嫌い、それだけじゃなく他人も嫌い、おまえもあいつも嫌い、そもそも人間が嫌い、というループは続く。福沢諭吉は「人間ごときが人間を嫌うな」と言ったが、じゃあ、おまえは人の上に人を作るなよ、と思う。(三○会の奴らは平然と人を顎で使って、態度から選民思想が滲んじゃって、本当に嫌い。わかる人にはわかるでしょう。おっと、話が逸れてしまった笑)

自分の反応が病的(情緒不安定)ということ以外にも、気付いたことがある。今の仕事がつまらない(実はそのつまらなさにも慣れつつある)のだが、仕事に打ち込みたい、とどこかで思っている自分がいる。社畜はブラック企業をより漆黒に染め上げてしまう癌なのだが、またそれに陥るところだった。自分の心の穴を仕事で埋めよう、という気持ちが少なからずあった。でも、その働き方は3年はできても、10年は続けられない。それはわかっていたはずなのに、また繰り返してしまうところだった。危ない、危ない。

仕事はしょせん仕事。金がもらえればよい。電子マネーで支払われる会社には絶対入りたくない。)そして、転職活動は賞金稼ぎと同じ。しょせん、狐と狸の化かし合い。嘘も方便(経歴詐称はダメ)。美しくない履歴書を疎ましく思っていてもはじまらない。わたしは、誰かさんに「きれいな履歴書だ」と思われるために働いてきたわけではない。

そして、「先延ばし」にするのをやめようと決意した。アドラー心理学の研究者である岸見一郎さんが言っていたことだが「今日は未来の準備のためにあるのではない。いつだって今日が本番である」という考えに変えなければ、と思う。今を未来のために使うな。今にフォーカスせよ。

転職できたら、靴とバッグを新調しようと思っていたのだが、靴とバッグはすでにくたびれているのだから買えばいい。もちろん、わたしはケチなので、ブランドものなどは買わないが、やはりデザインなどは変化していくものなので、定期的に買い替えたほうがいい。

実は、こう考えるようになったきっかけは、ほかにもある。Amazon PrimeでBBC製作のベネディクト・カンバーバッチ主演の『シャーロック』のシーズン1の第1話をあまり考えずにぼんやり見ていた。カンバーバッチ演じるシャーロック・ホームズが犯人と対峙したとき、言った台詞にドキッとした。正確には覚えていないのだが、「あなたの服は古い。洗濯はされているが、三年ぐらい前のものだ。服を新調しないのは終わりを待っている人間だからだ」と犯人が病を患っている(死を待っている)ことをドンピシャ当ててしまうシーンがあり、これには身に覚えがありすぎる、と思った。そう、わたしは毎日働いているし、元気にnoteなんかも書いているが、実は、隕石とかが落ちてきて終わってくれないかな、と他力本願な末路を願っている。(通り魔とかに刺されるのは絶対に嫌。痛いのとか血を見るのは大嫌いなので、わたしは今日も生きているのだと思う)服なんかたくさん持っていてもしょうがないが、くたびれた服を着ているのは、ケチということもあるが、希望を持てずにいる、という心持ちが原因なのだ。

今回、選考に落ちて、自分を痛めつけるような考えを繰り返してしまったのは、一種の自傷行為であるし、ボロボロの服を着続けるのは一種のセルフネグレクトでもある。自傷行為は百害あって一利なし。服もときめきまでは感じずとも、ちょっと気分が明るくなるようなものを身につけたほうがいい。

昨日、唐突に思い立ち、iphoneのカメラロールにある食事の写真をアルバムにまとめて、スライドショーで眺めていたら、ちょっと癒された。わたしは毎日の食事を繰り返し、食べてきたから、今、生きている。仕事で自己実現をして、やりがいを感じているから、生きているのではない。単純に、食べて眠れるから、命が続いている。それだけのことを大仰に考える必要はない。その仕事論、来年は使えるかもしれないけれど、五年後はどうなのでしょうね、と言われてしまうぐらいテクノロジーの進歩はすさまじい。わたしは老いない技術と安楽死の技術が競われるグロテスクな現代を生きている。

結論としては、たかが仕事の、たかが面接に落ちたぐらいで落ち込むな、ということである。くれぐれも、仕事に邁進しないように気を付けていきたい。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!