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#映画感想文『パリ13区』(2021)

映画『パリ13区(Les Olympiades /Paris, 13th District)』を映画館で観てきた。

監督はジャック・オーディアール、脚本はセリーヌ・シアマとレア・ミシウス。

出演はルーシー・チャン、マキタ・サンバ、ノエミ・メルランの三人が主人公として登場する。

2021年製作、105分、フランス映画。

これまで、映画館で何度も予告編を観ていた。予告編を見る限り、若者の群像劇で、頭がてんてこまいになる系の映画だと思っていた。すれ違うだけの人たちの物語がちょっとだけ、断片的に、交錯するようなストーリーを勝手に想像していた。

観て、びっくり! 

軸となる人はたったの三人で、この三人は知り合いになり、付き合ったり、別れたりする。意外と世界は狭い。

ルーシー・チャンが演じるエミリーは、台湾系のフランス人で、フランス語が母語で、時々、隠語、暗号として中国語を使う。何気なく、香港のニュースを見るシーンもあった。三世の華僑は世界各地、どこにでもいるのだろう。生粋のパリ市民である彼女は、政治学の大学院を出たのにコールセンターで働いている。

エミリーはセックスに対するためらいがない。バイトを30分抜け出して、マッチングアプリの男とやってしまうシーンがあるのだが、その体力、気力、瞬発力は、むしろ清々しいぐらいだった。欲望に忠実である。凡人にそんな行動力はなかろう。無理無理。

わたしは、セックスや性に対する姿勢や考え方は、ルックスや職業、所得、学歴と、相関関係がないと勝手に思っている。

(わたしの狭小の観測に過ぎないが、中小企業社長のご子息やご令嬢、小金持ちのお坊ちゃん、お嬢様は、比較的性に奔放な人たちが多い。彼らが、労働や勉強に打ち込む必要がなく、時間が余っているせいだと思っている。大富豪とかだと、また違うのではないか。一生、会う機会はないと思うが)

見た目と行動は必ずしも一致しない。派手なルックスで貞淑で奥手な人もいれば、地味な顔して何でもできてしまう人がいる。セックスは、基本的に見えないところで行われ、隠すものであるから、実際のところは、誰にもわからない。性行為に対する考え方や向き合い方を披露する機会もほとんどないし、披露したくもないし、披露されても困るかなと思う。

隠されているせいなのか、我々はセックスに興味と関心を持ちすぎているような気もする。どんな映画を観ても、たいていそのようなシーンがあり、あまり必然性を感じないことも多い。それが映画の役割だと思っている人もいるのかな。でも、インターネットにポルノは溢れているので、映画でそれが表現されていてなくても、別に問題ないような気がする。

マキタ・サンバが演じるカミーユ、ああいう身のこなし方、しゃべり方の男性は、何とも魅力的だ。初登場シーンの瓶底眼鏡の冴えない感じが、何とも心憎い。少しのギャップで、次のシーンから、どんどんかっこよく見えてしまうから不思議だ。そして、フランス語という言語には、どうしようもなく漂う色香がある。そして、カミーユは語りすぎない。ときに黙り、女性が待ってほしい、と言えば、待ってくれる。性急にではなく、配慮がある。それがすごく魅力的に思えた。

あと、カミーユの父親、妹とのやり取りも短いが印象に残っている。カミーユが大人としてふるまうと同時に、本質的には優しいのに、皮肉っぽくふるまってしまう若さに拘泥しなくていいや、というあきらめ、加齢、成熟の過程が描かれているような気がした。

ノエミ・メルランが演じるノラは、セックスに対するトラウマがあるのに、別の騒動を巻き起こし、巻き込まれてしまった不幸な女性である。トラウマを断ち切るために、ソルボンヌ大学に復学をして、学びを再開したのに、うまくいかない。ラストでは、もう一人の自分に会いに行く。そこには愛が生まれる予感があり、幸福な気持ちにもなった。

エイドリアン・トミネの短編集『キリング・アンド・ダイング』『サマーブロンド』に収録されている3編から、ストーリーの着想を得ているそうだ。ちなみにトミネさんは日系アメリカ人4世だそうだ。

そういえば、この映画には、フランス人の皮肉っぽさや冷たさがあまりなく、いわゆる階層と階級が葛藤の要因として描かれていなかった。時代は変わりつつあるのだろうか。いやいや、マクロンだって嫌われているし、フランスの階級の問題は根深いはず。

ただ、それが可視化されているフランスの方が、よほど羨ましい、という気もする。日本は、本当に見えにくいんだよね。

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