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#映画感想文219『フェイブルマンズ』(2022)

映画『フェイブルマンズ(原題:The Fabelmans)』(2022)を映画館で観てきた。

監督はスティーブン・スピルバーグ、脚本はスピルバーグ、トニー・クシュナー。主演はガブリエル・ラベル、ほかにミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、セス・ローゲン、デビッド・リンチが出演している。

2022年製作、151分、アメリカ映画。

公開初日の夜の回を鑑賞してきた。巨匠スティーブン・スピルバーグの自伝的作品であるにも関わらず、観客の入りは半分ぐらい。とても快適に見られて、個人的にはよかったのだが、スピルバーグ・ブランドの翳りを見せられたようで、少し不安になったのも事実である。

わたしが思春期の頃は、映画好きでない人でも、必ず見なければならない監督の一人だと言われていた。昨今、ネット配信が隆盛を極め、映画産業自体の位置づけが変化してしまったことも一因だと思われる。

本作は映画監督スピルバーグが形成されるまでの幼少期から大学生までの時期が描かれるのだが、それだけではない。タイトルの『フェイブルマンズ』は、フェイブルマン一家という意味であり、家族の物語でもある。

主人公のサミーが初めて映画館に行き観た映画は1952年公開の『地上最大のショウ(原題:The Greatest Show on Earth)』で、彼は列車と車の衝突シーンに衝撃を受け、悪夢に苦しむことになる。

はーん、この経験が映画『激突』に繋がるのね。これは『プライベートライアン』かな、この寂しい感じは『E.T.』につながりそう、などと、スピルバーグファンなら、二重にも三重にも楽しめる構造になっている。(わたしが気付けたのは、ほんの一部にすぎない)

彼は幼少期から、父親のカメラを自由に使って、ボーイスカウトの仲間たちと短い作品をたくさん作っていく。やはり、一般的な家庭よりは裕福で、生活に困っている感じはなかったが、問題も抱えていた。

父親はエンジニアで、田舎の小さな会社から、GEへ、その後はIBMに移る天才的な人物。母親も天才的なピアニストだったが、結婚をきに家庭に入る。四人の子どもがいて、時々ピアノを弾く生活を送っている。夫婦には、夫婦にとって大親友のベニーという男性がいて、ベニーは「叔父さん」のように、家族の中に入り込んでいる。サミーにとっても、楽しいおじさんだったのが、あるとき、サミーが家族キャンプの映像を編集していると、不自然なほど母親とベニーが親し気であることに気が付く。

不倫を疑うサミーは母親に反抗的な態度を取るようになっていく。実際はその時点では不倫関係ではなかったようなのだが、結局、夫婦は離婚をして、母親はベニーのもとへと行ってしまう。この作品の核には両親が徐々に離れ、離婚に至ってしまった、子どもの心の痛みがある。

また、サミーは父親がGEからIBMに引き抜かれたことをきっかけに、アリゾナからフロリダへと引っ越す。その高校ではユダヤ人であることを理由に徹底的にいじめられる。その苛烈さに驚く。「ユダヤ人が好きな人間なんていないだろ」「どうしてキリストを殺したんだ」と罵倒されたり、殴られたりして、サミーは地獄の日々を過ごすようになる。しかし、三年生の卒業前のおさぼりビーチデー(砂浜に遠足に行くイベント)で、撮影を依頼される。高性能のカメラが使えるということで、サミーは引き受けることにする。

プロムパーティーでサミーが撮影と編集、演出をしたその映像が流れると、会場は大盛り上がり。しかし、その作品のなかで、主人公イケメンとして登場させた同級生にサミーは激怒される。「あれは俺じゃない。薄っぺらな人物として切り取りやがって」と批判され、本人は泣き出してしまう。そこでサミーは映像の暴力性に気付く。監督心得を身をもって学んだことが示唆されている。

その後、大学に馴染めないサミーはパニック障害に苦しむ。父親には、その苦しみと映画を撮りたい、という心情を吐露する。いろんなところに履歴書を送りつけていると、CBSから話を聞きたいと返事がくる。そのようにして、サミーはハリウッドに潜り込むことに成功する。ジョン・フォード監督と話すことを5分だけ許され、「映画は地平線が上か下にあると面白くなる。真ん中にあるとクソつまんなくなるから気を付けろよ!」とアドバイスを受ける。その偏屈そうなジョン・フォードをデビッド・リンチが演じているので、そこがまたコミカルで楽しかった。

家族の物語パートで両親が別れてしまった理由を妹が考察するシーンは興味深かった。

母親は自分のことをミューズであると崇拝してひたすら話を聞いてくれる勤勉で誠実で天才的な男性を選んで結婚した。しかし、自分の話を聞いてくれたうえで自分を笑わせてくれる男性の方に、より魅力を感じてしまった。天才にあがめられても気が休まらないのではないか、と。

互いに自然と近づいてしまう関係は確かにある。笑わせるためには、笑いのツボが似ていること、感性が似ていること、常に自分を観察してくれることが条件で、そちらの男性とのやりとりの方が楽しくて、あっという間に時間も過ぎてしまう。ただ、生真面目な父親からしてみれば、それはそれで残酷な事実に過ぎない。

愛する人が、ほかに愛する人がいるからと自分のところを去る痛みは耐えがたいものだ。「それが人生」とは口が裂けても言えない。父親の悲しみが象徴的に描かれていた。

やはり、子どもにとって家庭というのは、ある種の牢獄であり、苦しみの生まれる場所である。そのことをきちんと記憶して、決して過去を美化しないスピルバーグの作家性がいかんなく発揮されていた。

スピルバーグの作品には、どことなく「さびしさ」が漂う。それは彼が学校でユダヤ人であることや勉強ができないことを理由にいじめられ、疎外された経験などがベースにあるのだろう。

そして、科学的な父親と芸術的な母親がいたからこそ、彼が映画監督になれたのだということが本作でわかった。ある意味、サラブレットであり、映画監督になるしかなかった人でもある。

スピルバーグは、少年時代から映画を作り、映像や音楽、脚本のことがよくわかっている人でもあるが、自分の心の痛み、悲しみを直視し続けた人でもあると思う。それらをごまかさず、自身の感情と対峙し、作品に昇華するまで考え続けられる人はあまりいないわけで、やはり稀有な人なのだ。

(ハリウッドのドタバタ監督日記みたいな映画も撮ってほしいな、と思うが、そこは映画化もできない事情があるのかもしれない。)

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