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ままならない時間

時間がうまく使えていない、という感覚にずっと苛まれている。十代の頃はもちろん、社会人になってからも、時間を有効に活用できた試しがない。

とはいえ、時間は容赦なく遅滞なく過ぎていく。若い頃との大きな違いは、「時間がもっとあったらいいのに!」とは思わなくなったことだ。そう思えなくなったのは、半年間の無職期間を経てからである。

無職期間、わたしはすべての時間の決裁権を持っていたにも関わらず、「時間」をうまく使いこなせなかった。時間を持て余し、時間を疎んですらいた。未来に対する焦燥と、確実に減っていく貯金残高を前に強い不安を感じ、無為に時間を過ごしたり、憂鬱であるがゆえに頭がぼんやりして集中して物事に取り組むことができなかった。

つまり、時間があっても、非常にきつかった。創作的なことを義務的にやったところで、すべてが上滑りしているような徒労感があり、こんなことをやって何になるんだろう、こんなことをしている場合なのだろうか、とどこか醒めた目線で自暴自棄な思考を繰り返していた。(それをちゃんとやれていたら、今、別の場所にいられたのかもしれない)今となっては、心が不健康であると、タスクをこなすこと自体が難しかったのだとわかる。誰にも求められていないことを粛々と進められる狂気と強靭なメンタルがわたしにはなかった(今もない)。その当時は、誰とも関わりたくなかったし、誰かに理解されたいとも、理解されるとも思っていなかった。人間様が大嫌いなのに、人間様に相手にされることを希求することに引き裂かれていたのだろう。今はその混乱からは脱することができている。というか、社会の中で生きていくしかない、と頭と体で理解する契機となった。わたしは何も超越などできず、超人的なところはなく、他者からのフィードバックやリアクションがなければ生きていけない。

作家のサリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』で一躍時の人となり、その後は山奥で隠遁生活をしながら、発表する予定のないグラース家の物語を書き連ねていたという噂だった。物語と登場人物をこねくりまわして、それを書き続けているサリンジャーみたいに生活できたら最高だな、と学生時代は思っていたが、わたしがサリンジャーだったら、駄作だろうが何だろうが、世間とつながろうとして作品を発表してしまっただろう、と思う。死ぬまで、作品を外に出さなかったサリンジャーは抑制的とも言えるが、やはりそれなりに頭のおかしな人だったのだと思う。ただ、サリンジャーは心の底から、批評や批判を恐れていたのかもしれない。そして、それが創作意欲を根こそぎ奪う暴力性を持つことも知っていたのだろう。自分の欠点なんて、自分が一番自覚していたりする。それが外部からやってくる恐怖。その攻撃をまともに受け止めたら、やる気なんて一瞬で失われる。そんなこと、こっちだってわかっているよ、と自分を腐すと悪循環に陥る。彼は自分自身を守って書き続けるために、あえて社会と断絶した。物語は読まれるために存在する、というのは、一つの側面に過ぎないのかもしれない。

話を戻すと、頭ごなしに、半ば強制的に、「労働」に自分の時間を奪われることは苦痛でも何でもないことに気が付いた。定時であれ、フレックスタイム制であれ、労働が日々の自分を律してくれている。「労働」が自分を社会的な存在にしてくれていることは否定のしようがない。それは子どもの頃の自分はまったく知らなかったことだ。いや、それが学校教育の賜物で、不自由の中にある自由しか楽しめない人間が完成してしまったのかもしれない。わたしは学校にある集団の同調圧力や、いわゆる「ノリ」が大嫌いだったのだけれど、机に座って勉強のルーティンを繰り返すことはあまり苦にならなかったというか、むしろ好きだった。そういうものを求めてしまう人間であることも、年を取ってようやくわかった。

今、通勤時間に往復3時間弱かかっている。体がぶつかるような満員電車の中でできることはそれほど多くない。ラジオや音楽を聴いて、時々、座れるときは本を読んだりするぐらいだ。QOLを損なっているのは事実だが、通勤を理由に仕事を辞めたいとは思わない。通勤時間の苦痛ぐらいは耐えられる。ただ、それがじわじわボディブローのように体力を消耗させているから、秋口に一週間寝込んでしまったのだろう。倒れるのは、結構きつかった。

今はnoteを書く時間すら、捻出できていない。それほど忙しくないのだが、ちょこちょこ体調を崩し、気持ちに余裕がなく、なかなかパソコンに向かうことができていない。途中で投げ出しているタスクが複数あり、ただの注意散漫状態で、何もかもが中途半端で、もやもやと、すっきりしない日々が続いている。ただ、まあ、それはそれでしようがない、とどこかで思っている。時間があろうがなかろうが、時間がうまく使えないことはわかっている。

うーん、どうすりゃいいのよ。

まあ、つまらない結論だが、できる範囲で、できることを少しずつ進めていくしかないのだろう。そして、怒りや苛立ち、落ち込みを反芻することに時間を奪われたくない、とは思う。やったところで、自分を痛めつけるだけで、何かが良くなるわけでもない。物事を流して、日々に流されることが生きる術だ。抗うと疲れる。その体力がなくなってきている。

今の職場は良いところではあるが、何ともいえない違和感があることは否めない。しかし、違和感の正体を理詰めで解明したら、退職するしかなくなる。自分を守るためにも、「流す」ことが大事。今の職場で、わたしはそれを学んでいる。こだわらないこと。即断即決をしてはいけない。鷹揚さ、寛容さは身に付けられるものなのかどうかわからないが、そこが今後のポイントになるような気がしている。大きな仕事でも、小さな仕事でも、その心構えで、自分や周囲を追い込まずにやっていきたい。

眠って脳を休ませないと、仕事はできないし、文章を書くこともできない。だから、睡眠時間は削れない。バランスよく、野菜やたんぱく質を取るためには買い物をして料理をするしかない。自炊時間も、それなりに時間が取られる。身なりを整えるための洗濯やお風呂、セルフケアの時間も、固定的なものだ。通勤時間と労働時間は問答無用で決まっている。

わたしは人付き合いがほぼ皆無なのに、時間が欠乏している、という感覚が強い。みんなどうやって社交やら自己啓発やら趣味などの諸々のことを継続させているのだろう。すごいな、世間の人々って。

とはいえ、暇があっても、暇を有効利用できないことは無職時代の自分が証明してしまっている。あり余る時間、暇とは、自分と向き合う時間なのだ。自分と対面(といめん)でやり合うのって、マジできつい。自分ってそんなに面白くないからね笑

「今、ちょうどいい」「今がいい塩梅」と感じられる時間割は果たして作れるのだろうか。

去年の今頃は転職活動を終えて、退職手続きをしていた。一昨年の今頃は、無職で自分自身に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせていたが、実際のところは全然大丈夫ではなく、しんどかった。

最近、ようやく余裕が出てきたのか、その無職時代のことをふと思い出したりする。そんなこともすぐに忘れてしまうので、今のうちに書き残しておきたいと思う。

さて、大掃除と断捨離でもしよう。物を減らしたら、少し時間を増やせるかもしれない。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!