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#映画感想文213『ベネデッタ』(2021)

映画『ベネデッタ(原題:Benedetta)』(2021)を映画館で観てきた。

監督はポール・バーホーベン、脚本はデビッド・バーク、ポール・バーホーベン、主演はビルジニー・エフィラ、ほかにシャーロット・ランプリング、ダフネ・パタキアが出演している。

2021年製作、131分、フランス映画である。

舞台は17世紀のペシア(現在のイタリアのトスカーナ地方)。とある田舎町で、6歳の女の子であるベネデッタ(ビルジニー・エフィラ)が修道院に入るにあたり、最後の別れのセレモニーをやっていると、そこへ「金品をよこせ」と馬に乗った盗賊たちがやって来る。

ベネデッタは盗賊に演説をぶちかまして、鳥の糞を食らわせて追い払うことに成功する。神の子とまでは言えないが、「持っている女」であることが象徴的に描かれている。この出来事を契機として、はったりと偶然(奇跡)が重なっていく。

ベネデッタを修道院に入れるため、父親が修道院長と交渉をする。持参金が少ないと、「慈善事業をやっているわけじゃないのよ」とたしなめられ、さらなる持参金を要求される。当時、キリストの花嫁として修道院に入れるのは、年間三人と、かなりの狭き門だった。また、慈善事業ではないと堂々と宣言されており、それが宗教団体の本質であり、共同体の宿命なのかな、という気がした。(人間、何をするのも、金がかかる)

冒頭で、「あなたは賢いわね。でも、その賢さは自分に牙をむくこともあるから気を付けなさい」と修道女から警告を受ける。その後、幼いベネデッタが聖母像に祈りを捧げていると、その像が急に倒れてきて、彼女は下敷きになる。そんな緊急事態であるにも関わらず、彼女は聖母像の乳房を口に含む。それによって、レズビアンであることが示唆される。周囲の人が駆けつけ、「怪我もしていないなんて奇跡だ」と言われたりする。修道院に入って早々、またしても「持っている女」であることが証明される。

それから、18年経ち、ベネデッタは24歳となり、キリストの夢を頻繁に見るようになる。ただし、これがベネデッタの夢なのか、妄想なのか、自己正当化するためのシナリオなのかが、いまいちよくわからない。

ベネデッタは、観客が理解できる主人公として造形されていない。ベネデッタが何を信じているのか、何に突き動かされているのか、嘘をついているのか、本気なのかすら、わからない。

ベネデッタという役者が周囲を巻き込み、欺き、コントロールしながら、秩序ある世界を縦横無尽に搔き乱してく。もちろん、彼女は権力が欲しかったのだろうし、自分がキリストに選ばれし花嫁であることを信じて疑わなかったのだろうし、上昇志向が強かったのは確か。

ただ、自作自演なのか、本気でやってしまっているのか、自分自身も騙して動いているのかが、よくわからない。彼女の中では自己正当化と合理化がきちんとできているのだ。何か問題が起これば、「それは神の意志。裏切りも神の思し召し」となってしまうので、これでは埒が明かない。それこそが、世俗の人間の理解を超えた宗教性のなのか、思考放棄なのかはわからないが、それによって彼女は超然としたカリスマ性を維持していく。

ある朝、ベネデッタが目覚めると、磔になったキリストと同じく、手のひらと両足から血が流れている。ベネデッタは、聖痕を錦の御旗として、キリストの代理人としてふるまい始める。聖痕を目にした修道女たちはみなが跪く。

修道院長であるシスター・フェリシタ(シャーロット・ランプリング)は「寝ているときに神がやってくるかしら」とかなり懐疑的で、彼女はベネデッタの虚言であると思っている。

当時はペスト(黒死病)が大流行しており、多くの人が亡くなる世界に人々は暮らしていた。ペスト、コレラ、コロナと人類は感染症との戦いに明け暮れており、監督もコロナの時代ををふまえて、作品を製作したのだと思われる。その疫病をもベネデッタはきちんと利用する。「この町はわたしが守るの!」と救世主を気取り始める。

母親がペストで死んだことで、父親が娘を妻の代わりとして強姦するようになり、それに耐えかねて修道院に逃げ込んでくるのがバルトロメア(ダフネ・パタキア)である。バルトロメアの性的な誘いを受け、ベネデッタは彼女と関係を持つようになる。

おそらく、バルトロメアは修道院の末端にいる自分を心許なく思って、ベネデッタを自分の後ろ盾にしようと思ったのだろう。ベネデッタの同性愛指向が利用されたのだが、ベネデッタは存分に楽しみ、罪悪感をかけらも抱いていない。もちろん、同性愛は何も問題はない。ただ、当時の修道院では姦淫自体が罪であったにも関わらず、どこ吹く風で平然としている。本作はR18で、それは過激なベッドシーンがあるから、ということなのだろうが、何の後ろめたさも感じていないし、密やかなむつみ合いというわけでもなく、淫靡な空気感もないので、非常にからっとした性描写であった。それにベネデッタとバルトロメアの二人ともサイコパスだから、感情移入も不可能なので、エロティックさは感じられなかった。裸のシーンが多いのだが、神様に選ばれし女が存在感を誇示するという感じで、あまりいやらしくはない。葛藤がない人物は、あまり性愛的にならないのだなと思った。(性欲はあるけれど、情念がないのよ)

修道院長であるシスター・フェリシタとの権力闘争もあるのだが、フェリシタは宗教的な人間ではなく、組織の中で淡々として働く人物である。彼女には娘がいて、ベネデッタによって自殺に追い込まれ、フェリシタもブチ切れて行動を起こすのだが、ベネデッタは彼女とも正面切って対立はしない。

「だって、わたしはキリストの花嫁であり、特別な人間なのよ!」

という前提を決して崩すことがない。自分が常人であるとは露ほどにも疑わない。このわたくしが凡人なわけがない。このような狂気を抱えた人物の狂気性と相対することができる人間なんて、そんなにいない。

「~と主が言っています」「それは主の意志ではありません」などとキリストのメッセージを直に受け取って話しているという巫女のような、イタコのような体裁なのだが、どう考えてもおまえの意見だろ、とみんなツッコみたいのだが、ツッコめない。ベネデッタは、まともな凡人が会話のできるような人物ではない。

結局、彼女は同性愛の罪に問われ、火あぶりの刑となるのだが、そこもパフォーマンスで切り抜けてしまう。ベネデッタは最後まで、嘘をついたこと、自作自演であったことなどを詰問されても、決して認めない。彼女は本気でキリストの花嫁である自分が何をやるのもすべて問題なし、と考えていたのだろう。だから、すべては宿命であり、必然であり、そのことに後ろめたさを感じる必要などない。自分自身を疑ったり、心の弱さと向き合うことなど、皆無なのである。

この厚かましさは、どこかで見たことがある。そう、日本の世襲政治家たちの傲慢さと反省のなさ、人を踏み台にしても嘘をついても何とも思わない感じがそっくりだ。彼らは、神に選ばれしベネデッタなのだろう。まともな感性を持っていたら、政治家などできやしないのだ。

ボール・ヴァーフォーベンは、映画『エル ELLE』では、レイプされたのか、レイプさせたのか、男性の性暴力をことさらに悲劇的なものとして取り扱わない女性の超人ぶりを描いている。今作の『ベネデッタ』では、「わたしって神じゃん!」という凄まじい女を描いている。

ただ、こういう化け物は涼しい顔して、あなたの隣にもいるかもしれない。気を付けましょう。

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