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#映画感想文『PLAN 75』(2022)

映画『PLAN 75』(2022)を映画館で観てきた。

監督・脚本は早川千絵、出演は倍賞千恵子、磯村勇斗、たかお鷹、河合優実。

2022年製作、112分、日本・フランス・フィリピン・カタール合作。

わたしが見た回の席は、85%ぐらい埋まっているかな、という感じだった。これぐらいがちょうどよい。100%だと、コロナ前でも圧迫感があった。


プラン75とは、75歳になると、国による尊厳死が、自らの意志で選べる架空の日本の制度である。

しかしながら、架空、絵空事であるとは言えないリアリティを感じさせるのは日本社会の閉塞感によるところが大きい。あの人なら、この制度を一笑に付してくれる、という人の顔がどれだけ浮かぶだろう。多くの顔が浮かんだ人は、社会を信じられる人、信頼している人なのだと思う。

主人公の角谷ミチ(倍賞千恵子)は律儀な人である。郵便受けに自分の名前を貼り付け、自分をクビにした会社のロッカーを拭き、スーパーの惣菜のプラスチックもきちんと洗うし、出前の寿司桶も洗った上に乾拭きまでする。部屋の中にある本や皿は整理されているし、観葉植物がいくつも置かれている。(爪切りをしたあとの爪を鉢植えに入れるシーンがあるのだが、爪って養分になるのだろうか)

キャリアを積み重ねられなかった高齢の女性たちの多くは、清掃や警備員の仕事をせざるを得ない、というのは一般論。本当にそうなのだろうか。今、キャリアを築いていると確信している人たちだって、男女問わず、年を取ったら、仕事を選ぶことなどできないのではないだろうか。2022年時点では、清掃や警備の仕事にしか求人がない、という現実が厳然とある。高収入が約束されているのは、天下りができる高級官僚の一部だけだろう。

普通に生きている人々の頭上は、絶望の雲で覆われている。見て見ぬふりをして生きていくしかない。先のことを考えて、絶望なんてしていたら、「今」を生きる気力さえ、奪われてしまう。

行政が、尊厳死・安楽死と名付けて、自死と殺人に関わるとき、その舞台が公園の炊き出しであることの恐ろしさ。住民票がなくても申し込みができる、というのがセールスポイントらしい。行政側の岡部(磯村勇斗)は、炊き出しの豚汁を配りながら、プラン75ブースを構えていて、申し込みの受付もしている。このよくできたシステム、整然とした仕組みのグロテスクさに慄然とする。冷え切った心と体に、温かい豚汁、先の見えない日々のことを思ったら、衝動的にプラン75に申し込んだとしても、不思議ではない。

この映画には抗議する団体や、社会活動家は描かれない。一度、プラン75のブースの準備をしている岡部にトマトのようなものが投げつけられるシーンがあるぐらいで、岡部が命の危険を感じるような場面はなかった。これは、つまり、社会のマジョリティにとって、75歳以上の高齢者、その高齢者に対する政策は見えない、あるいは見なくてもいいこと、どうでもいいことであるという示唆だろう。「75歳で死を選ぶ? わたしには関係ないわ」と思う80歳だって存在しているのだろう。彼らはこの制度を真に受ける必要がない。お金や家族、健康があれば、それほど深刻には捉えなくてもよい。やはり、貧困層、社会的弱者が狙い撃ちにされる制度なのだ。

実際にこのような政策案が出されたら、反発を覚えて、文句を言う、貧乏な75歳以上の高齢者もたくさんいると思う。でも、早川監督は、その人たちをあえて描かなかった。そのような人たちではなくて、粛々とその制度を受け止め、利用する層が日本人には多いのではないか、という懸念が描かれているのだ。他人に迷惑をかけてはいけない、ということを躾けられ、刷り込まれ、多くの日本人はそれを内面化している。そこから逸脱して「迷惑をかけてくる人たちが許せない」という人たちだって少なからずいる。

その一方で、迷惑をかけてくる強者に対しては、従順だったりする。すんなり、無茶な条件をのんでしまう。結局のところ、この世は、パワーゲームの勝者と敗者がいるに過ぎない。金と権力のある無能な政治家に迷惑をかけられても、文句を言わずに我慢することが正しいと信じている人たちも少なくない。このような態度は「権威主義」「奴隷根性」と呼ばれるものだが、それに対して無自覚な人は多い。確かに、考えても仕方がないこと、考えたところで、上下関係や権力関係が変わるわけではないのだから、黙っていたほうがよい。体力を消耗させたくない、という人たちもいるだろう。でも、そのようにふるまっていると、奴らは増長する。だから、反対や抵抗の表明として卵や小石は投げ続けなければならない。相手がライフルやミサイルを持っていたとしても。(やはり、反論や反抗すらも、弱者にとっては一つも利益がなく、リスクしかない)

プラン75の担当者である岡部は、ホームレスを公園で寝かせないためのベンチの間仕切りを選んでいたり、Excelで作られたであろう申込者一覧表を何ページも印刷しているシーンがあったりして、日常の中にある狂気にぞっとする。政策が施行され、火葬場の故障が増えたり、委託業者の中に産業廃棄物業者が混ざり始める。合同火葬、合同埋葬だったはずなのに、遺灰や遺骨はごみとして捨てられてしまうのか。

岡部は叔父がプラン75を利用すると知り、急にジタバタし始める。そして、この叔父さんというのが、とても真面目な人なのだ。高度経済成長期に、日本中を駆け回り、土木の建設現場で働き、地方を転々とするごとに献血をして、日本中の献血ルームのハンコをコレクションしている。そして、暇な時間は近所のゴミ拾いを自主的に一人でやっている。むしろ、公共、共同体といったものを意識している人で、孤独ではあるが、利己的な個人主義者ではない。そのような人が国に利用されてしまうのだとしたら、これほど皮肉なことはないだろう。迷惑をかけないことで、社会の役に立ちたいなどと考えるのは、やはりグロテスクだ。

プラン75の申込者をサポートする河合優実が演じるコールセンタースタッフは、非正規職員で休憩室も用意されていない職場で働いている。新人研修の横で弁当を食べながら、水筒からお茶を飲んでいる。それだけで、貧しさが伝わってくる。彼女がお金のために自分の感情を殺そうとするシーン、死んだ魚のような目から滲む涙はすごかった。(あのとき、彼女は誰に電話をかけていたのだろう)

フィリピン人の介護士であるマリアは、介護施設で働いていたが、プラン75の施設で働くと給料が増える、と聞き、転職をする。彼女には心臓の悪い五歳の娘がフィリピンにいて、どうしても、日本でお金を稼ぐ必要があった。(彼女がタガログ語を話すとき、スペイン語と英語の名詞がたくさん混ざっていて、言語と国家というものも、考えさせられた)。彼女の仕事は、最期のケアと、死んだ彼らの所持品、つまりゴミの分別作業がある。ペアを組んで働いている男性が自分の老眼鏡とゴミとして廃棄しなければならない老眼鏡を何食わぬ顔で交換する。そして、彼女に高級時計を持っていけと勧める。彼女は一度断るが、ポケットにしまう。その男が「あなたが持っていればゴミではなくなるのだから、そっちのほうがよい」と言ったからなのだが、これは真理である。

断捨離界隈には「あなたが死んだら、(あなたの所持品は)全部ゴミ」というフレーズがある。「モノ」は生きている人が使わなければ、何も意味がない。お金だって、それは同じだ。最後に一瞬映されたあの札束は、心臓の悪い娘に使われるべきものなのだ。

そして、生きている人間は、年を取っていようと、心臓に欠陥があろうと、決して粗末にしてはいけない。生きているのだから。

映画館で観たので、号泣はできなかったが、嗚咽が漏れないようにするのに必死だった。そこら中で、鼻をすする音と、溜め息が聞こえてきた。これぞ、映画館で観る意義であり、映画体験だとも思う。

プラン75を利用することなどまったく考えない老人が、この映画には出てこない。だからこそ、余計に痛ましく、描きたい焦点がぼやけることがなかった。

ラストシーンの角谷ミチに対して、「よくやった!」と拍手したくなると同時に、「明日から大丈夫かな」と思ってしまった自分がいることも、正直に告白する。でも、そこで思い直したのだ。

明日のことなど考えなくてよい。「今」を生きていればそれでいいのだ、と。

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