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私が見た南国の星 第3集「母性愛に生きて」⑫

村の小学生「阿珍」との出会い、思わず涙が出てしまいました。大人になった彼女に会った時、思わず「あなたが、あの、阿珍なのね~」と言ってしまいました。

阿珍との出会い


 それから一週間が過ぎ、仕事も忙しくなかったので、気分転換に玄関先にある庭木の手入れしていた。すると、遠くの方から
「日本ママ!」
という声が聞こえてきた。私が、後ろを振り返ると。二人の少女が手を振っているではないか。
「あれぇ、あの子たちは先日ここへ来た村の子ではないかしら」そう思いながら手を振り返した。彼女たちは笑顔で私の所へ走って来た。
「日本ママ、こんにちは!」
元気が良い声でびっくりした。
「阿麗と阿珍、こんにちは。元気でしたか」
「はい、元気です」
ふたりの声は、森林の小鳥たちも驚くほどの響きがあり、私は嬉しくなった。この前は元気がなかった阿珍だったが、この時はとても明るく子供らしさを感じた。
「今日は忙しいですか?」
二人に聞かれ、少し遊んであげようと思い、
「いいえ、今日は忙しくないから庭の手入れをしているの」
と答えた。二人は私の側へ近付いてきて、
「ママ、私たちも一緒に手伝ってもいいですか」
という優しい気持ちが嬉しくなった。
「ねぇ、今日のお昼は一緒に食べましょう」
という私の言葉が嬉しかったのか、
「本当ですか?嬉しい!」
と、大声を出す二人に門の前に立っていた保安係りが、びっくりして近寄ってきた。
「どうしたのですか、何かあったのですか?」
と、保安係りが不思議そうな顔をしているので、私たちは思わず笑い出してしまった。彼女たちは暫く館内を散策して楽しんでいたようだった。昼食時間になると、初めて入るレストランの中を見て驚いていた。
「わぁ、凄く綺麗なレストランですね」
と感激して、二人は天井を見上げたまま目をキョロキョロしていた。このレストランの天井は、かなり高くしてありシャンデリアが幾つも設置してあったので珍しかったのだろう。村の子たちは、このような洋風建築を見た事はない。食事中も天井を何度も眺めながら楽しそうにしていた。馮さんと私は、そんな子供たちを見ているのが楽しかった。
 食事が終わり、私は午後から伝票の確認と、前日の売り上げに目を通していた。子供たちは、馮さんと一緒に露天風呂の見学をしていた。暫くして事務所に顔を出した二人は、壁に掲げてある日本の国旗を見て目を丸くしていた。
「ママ、日本の国旗を見たのは初めてです。テレビでちょっと見たのですが、この目で見たのは本当に初めてだから嬉しいです」
彼女たちの嬉しさは、私にとっても喜びの一つだった。そして、日本の国について質問が飛び交い30分くらい手を休めて話をした。
「ママ、日本は良い国ですか?地図で見ると、とても小さい国だけど人口は?食べ物は美味しいですか?学校はたくさんありますか?」
いろいろな質問攻めに答える暇がないほどだった。二人が日本の国に興味を持ち始めているのが分かった。
 しかし、最後の質問に私はショックを受けた。
「ママ、中国は日本の国に戦争で負けたのですが、あんな小さな国がなぜ中国に勝てるのですか。海南島も日本の軍隊が占領したのでしょ、だったらどうしてこの島は日本じゃないの?日本だったら良かったのにね」
この子たちは、学校やテレビ番組で戦争のことを聞かされているのだ。戦争については、誰の責任でもないとしか言えない私だった。なぜならば、私自身も戦争の体験がないので、この子たちと同じように戦争を知らないからだ。中国は、今なお日本に対して謝罪を求めているが、この子たちにとっては謝罪の深い意味もわからない。そして、戦争に対しては、特に慎重に言葉を選ぶべきだと思った。
「あなた達は、これからの中国にとって大切な存在です。私もいつかは、この世からいなくなります。日本にも、あなたたちと同じ年齢の子がたくさんいますから、将来は中国と日本が仲良くして、互いの国の平和と発展のために協力をし合ってくださいね。お願いします」
と言った。二人は真剣な表情になって、
「そうですね、日本と中国は同じアジアの国だから家族ですよね。私たちが大人になったら日本とは仲良くしますから心配しないで下さい」
と、優しい気持ちを語ってくれた。四年生にもなると、それぞれ自分の考えをしっかりと言えるものだと思い、彼女たちの気持ちを素直に受け止めた。二人は、この日から時々このホテルに遊びに来るようになり、掃除や草取りも手伝ってくれた。
 阿麗は、この村に祖父母がいて両親は別の県で仕事をしている。両親の収入も多く、祖父母も農園を持っていたので、金銭や生活には問題なく育っていた。しかし、阿珍は貧しい苗族の村の祖父母に育てられていたので、食事も満足に出来ず、洋服は農村の子供の古着しか着られなかった。
 阿珍の母は、彼女が二歳の時に病気で亡くなったと校長から聞いた。阿珍も祖父母から、そのように聞かされていたようだったが、村長からの話では自殺のようだとのことだった。隣のホテルの横にある丘で、彼女の母は静かに眠っているそうだ。阿珍は一度も母の墓へ行った事がないと寂しく語った。この七仙嶺に住む少数民族の苗族は、亡くなった人の墓参りは絶対しないのだそうだ。全て土葬と聞いているが、「人間は最期、土に還る」という言葉どおりなのだろう。その人が亡くなってから、未練を残すと土に還れなくなるので、墓参りはしないのだそうだ。考えれば寂しいことのように思えるが、それは私が日本人だからだろう。
 阿珍と出会った年の冬の出来事だ。11月に入ると山に囲まれた温泉地には、風が吹き荒れて寒さを運んできた。その日は、平日のため宿泊客も少なく、夜になると何処のホテルも静かだった。私は事務所で仕事を終えて、馮さんと共に自分の部屋へ戻ろうとした時だった。ロビーを通って歩いていた時だった。玄関から阿珍が私の所へ駆け寄ってきた。
「どうしたの?こんな時間に何かあったの」
と、声を掛けた。時間は既に夜の9時を過ぎていたので、急に心配になった私は阿珍の顔を見て尋ねた。
「ママ、家にはお米がないから何も食べていないの」
一瞬、この子が言っている意味がわからなかった。
「どうしたの、お米がないって?」
としか言えなかった。
「もう、二日も何も食べていません。明日のお米もないから、お米を貸して下さい」
こんな子供がお腹を空かせて、一人で暗い夜道を歩いてきたことに驚いてしまった。本当にその時の彼女の顔は今でも忘れることが出来ない。
「阿珍、ちょっと待ってね。今、料理長に何か材料があれば作ってもらうから心配しないで」
涙を流している可哀想な彼女の顔を正面から見ることが出来なかった。そして、料理長に訳を言って、簡単な料理を作ってもらい彼女に食べさせた。二日間も何も食べていないという阿珍の食べ方は飢えた野良犬のようだった。その食べている姿を見ながら涙が出てきた。
「どうして、こんなに可哀想なのでしょう」
心の中でつぶやきながら、止まらぬ涙を隠していた。こうして彼女が美味しそうに食べているのを眺めて、辛い思いに耐えていた。出てきた料理は全部食べてしまった彼女だったが、残り物のご飯はないかと聞いてきた。
きっと明日の食事にしたかったのだろう。
「阿珍、心配しないで。学校が終わったら、ここへいらっしゃい。社員たちのお姉さんと一緒に食べればいいからね」
私は彼女が本当に可哀想でならなかった。
「お爺さんとお婆さんは、どうしているのですか。お米がないから何も食べていないのですか?」
と聞くと、お腹もいっぱいになった彼女は、またもや私が失神しそうなくらい驚くことを言った。
「お米は、もう一ヶ月くらい前から無くなってしまったの。芋もなくなったから、山ネズミを食べています。私は食べられないから何も食べていなかった」と彼女が言った時、急に気分悪くなってしまった。ここの苗村は、貧しさのあまり山ネズミまで食料にしていたのだ。阿珍の家は、田や畑の広い土地がないので、野菜等も売るほどは作れない。米は少し作るそうだが、今年は不作のため昨年の残り米で飢えをしのいでいたということだった。こんなにも可哀そうな子供を、なぜ政府は放っておくのだろう。そんな怒りが私の脳裏を駆け巡った。彼女をこのままにしておけば、いつか病気になると思い心配でならなかった。夜も遅く夜道も危ないので、仕事を終えた保安係りに家まで送らせる事にした。この時、社員たちが食べるお米を少し袋に入れて持たせた。あまりにも衝撃過ぎて、朝まで眠れなかった。
 次の朝、私は買い物係りの「卓啓能」に頼み、お米を30キロ買ってきてもらい、阿珍の家まで運んでもらった。
 その後、阿珍は、このホテルが忙しい週末だけやってきた。
「お米をもらったので家で食べます。私が毎日ここへ食べに来ては、ママが社長に叱られますから、レストランが忙しい時に余り物を下さい」
彼女は私のことまで心配してくれた。
「阿珍、貴女の食べる分は私が会社に払いますから心配しないで」
と彼女に言った。母の愛も知らない、そして父にも捨てられていた子が、こんな苦しみにも耐えて頑張っている姿を見て、急に自分が恥ずかしくなった。
 阿珍が顔を出すたび、社員たちも妹のように可愛がってくれるようになった。彼女は、初めて家族愛を知ったようだった。そして、少しずつ明るい性格になっていく阿珍を見て、私も仕事にも熱が入っていた。
 
 ホテルが廃業後から約一年近く、阿珍と私は海口市で一緒に暮らした。しかし、私が大陸の安徽省銅陵県のホテルで顧問の仕事を頼まれたため、2007年3月からは、阿珍は母方の叔母さんの支援で、故郷の保亭県の中学の寮に入り、中学に通うことになった。一緒に安徽省へ連れて行くつもりだったが、環境が変わって体調を崩すことを心配して海南島に残したのだった。
 安徽省での生活は、考えていたのとは大きな違いがあった。その土地の水が合わず皮膚炎を起こしてしまった。毎日トラックのラッシュで、道路の土埃を舞い上げていく、その土埃の為毎日のシャワーは欠かせないのだが、毎日のシャワーで皮膚炎が酷くなり、とうとう病院まで行かなければならなくなった。
 いくら頑張っても環境に逆らう事は出来ず、短い大陸生活にやむなく終止符を打ち、海南島へ戻り、再出発をする事にした。大陸で生活を経験してみると、やはり海南島の環境は素晴らしいと思った。ただ安徽省では、世界的に名高い「黄山」に登り、素晴らしい景色を眺めることができたことは、とてもいい思い出となった。海南島の生活しか知らなかった私が、安易に考えて他の土地に行き、周りの人たちに多大な迷惑を掛けてしまったことは事実で、今でも申し訳なかったと思っている。
 七仙嶺の地で生まれ育った阿珍が中学生になるまでの間には、数々の出来事が私の身辺に起こった。彼女と出会ってから私は、我が子のように今日まで面倒を見てきたのだが、互いに理解できない壁にも何度もぶつかることもあった。
 

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