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私が見南国の星 第5集「走馬灯のように」⑭

ホテルを売却するという話も、なかなか一筋縄ではいかないものなんですね。さてさて、ホテルはどうなってしまうのでしょう。

白紙撤回


 7月30日、買主の代理人と業者と共に話し合いが始まった。営業に関しては8月25日までとなり、31日には全てを受け渡し、このホテルを出て行かなければならないということが決まった。社員たちに関しては、引き続き雇用をしてくれる条件になったので、ほっとした。一番心配だった問題について安心が出来た。
  この日は言葉では言い尽くせないほどの寂しさが込み上げてきた。でも、今更どうしようもない。海南生活四年半に別れを告げる日が決まってしまうと、苦しかった頃の日々も懐かしく思えてきた。私はホテルの廃業処理後には、日本で出直す事を考えなければならなかった。帰国をしても、私を暖かく迎えてくれる場所など何処にもなかったので、正直なところ不安が襲ってきたのは事実だった。子犬のレオとジュリーの事も我が子のように可愛がってきたので、離れる事は本当に辛かった。この子犬に関しては、とりあえず馮さんに面倒を見てもらう事にしたが、離れたくはなかった。覚悟をしていた事だったが、いざ売却が決まった時の心境は、本当に辛いものがあった。夏が終わった頃には、社員たちも新しい経営者の管理で、きっと頑張ってくれると信じていたが、やはり心配で夜も眠れなかった。もう、これから私を「ママと呼んでくれる日は二度とやってこない」と思うと、寂しくてならなかった。
 8月2日、阿浪は海口市へと向かった。売却金の入金口座を開設しなければならなかったからだ。仲介業者と共に銀行で手続きをする予定だったので、彼も慎重に契約書類に目を通していた。少し緊張ぎみの彼だったが、元気よく出掛けて行った。仲介業者には、すでに売却金の一部が買主より入金されていたので、そのお金を移動させなければならなかった。
 神様の悪戯なのだろうか、また、とんだハプニングが起きてしまった。仲介業者の口座に入金されているお金を移動する際の手続きに問題が生じたのだ。仲介業者は、我が社の口座開設にあたり、名義人を二人にすると言った。我が社と仲介業者名義で口座を開設をする事は危険だと判断をしたので、阿浪にストップをさせた。仲介業者は問題がないと言うが理解ができなかった。万一、ホテルのお金が取られるような事になれば、私は生きて日本へ帰る事が出来ない。どうして、こんな不自然なやり方をするのかと尋ねると。
「反対に、お金だけを渡した後に名義を変えてくれなければ、私の会社は損害を被る事になりますよ」
と、言われたのだ。しかし、私は説明を受けていなかったので納得がいかなかった。
「では、なぜこんな大切な問題を初めに説明されなかったのですか。日本人は誰だって理解が出来ませんよ」
と。水掛け論となったので、直ぐに阿浪を引き返させた。中国のやり方と言われても、お金の問題だけは仲介業者に対して納得出来なかった。名義が変わるまで出金はせずに口座に入ったままと言われても
「通帳管理が我が社ではなくて、仲介業者では誰が信用しますか」
と大声を出してしまった。
「我々が知らぬ間に引き出す事も可能ですから、何を言われようと引き下がりません」
この一言で、この契約は破棄する決心をした。売主と買主側での口座開設であれば、まだ少しは理解が出来るが、仲介業者と我が社の間では話が違いすぎた。阿浪が戻ってから、仲介業者の担当者と話し合いをしたが、契約を続行させる気など起きなかった。
「お願いします!売却をしてもらわなければ私の会社は、買主から入金されているお金に対して賠償金を請求されます」
と、何度も言われようと、私は断固としてこの契約をする気にはなれなかった。買主には直ぐに連絡をして、契約の白紙を告げた。買主側も、仲介業者のやり方は理解が出来ないし、購入しても手数料などは支払うつもりは無いと腹立たしそうだった。阿浪の大学時代の先輩が勤めている会社でも信用は出来なかった。
「阿浪!何をやっているのですか。あなたに任せて来た事は私も間違いでした。もっと、慎重な人だと思っていましたが残念です」
と言うと、彼も下を向いて反論はしなかった。ただ、先輩が解雇をされてしまう事を心配していたようだった。
「阿浪、いくら先輩でも情は禁物ですよ!私の力で問題が解決できなくなれば、あなたも私も生きてはいられませんよ。いいですか、この話は終了します」
と、最後に言った私の言葉に対して、仲介業者の管理者も不服そうに帰って行った。その後、本社へ事情を説明したり、社長へ報告書を作成したりして一日が終わろうとしていた。社長は、
「わかりました。白紙になりましたが、大きな問題が起きなかっただけでも良かったです」
と、私の対処について理解をして頂けたようだった。本当に長い一日が終わり、部屋で一人になりたかった私の気持ちを察して、阿浪も何も言わず自分の部屋に戻って行った。そして、この日から、再びいつもどおりの生活に戻ったのだった。

白紙撤回
7月30日、買主の代理人と業者と共に話し合いが始まった。営業に関しては8月25日までとなり、31日には全てを受け渡し、このホテルを出て行かなければならないということが決まった。社員たちに関しては、引き続き雇用をしてくれる条件になったので、ほっとした。一番心配だった問題について安心が出来た。
この日は言葉では言い尽くせないほどの寂しさが込み上げてきた。でも、今更どうしようもない。海南生活四年半に別れを告げる日が決まってしまうと、苦しかった頃の日々も懐かしく思えてきた。私はホテルの廃業処理後には、日本で出直す事を考えなければならなかった。帰国をしても、私を暖かく迎えてくれる場所など何処にもなかったので、正直なところ不安が襲ってきたのは事実だった。子犬のレオとジュリーの事も我が子のように可愛がってきたので、離れる事は本当に辛かった。この子犬に関しては、とりあえず馮さんに面倒を見てもらう事にしたが、離れたくはなかった。覚悟をしていた事だったが、いざ売却が決まった時の心境は、本当に辛いものがあった。夏が終わった頃には、社員たちも新しい経営者の管理で、きっと頑張ってくれると信じていたが、やはり心配で夜も眠れなかった。もう、これから私を「ママと呼んでくれる日は二度とやってこない」と思うと、寂しくてならなかった。
8月2日、阿浪は海口市へと向かった。売却金の入金口座を開設しなければならなかったからだ。仲介業者と共に銀行で手続きをする予定だったので、彼も慎重に契約書類に目を通していた。少し緊張ぎみの彼だったが、元気よく出掛けて行った。仲介業者には、すでに売却金の一部が買主より入金されていたので、そのお金を移動させなければならなかった。
神様の悪戯なのだろうか、また、とんだハプニングが起きてしまった。仲介業者の口座に入金されているお金を移動する際の手続きに問題が生じたのだ。仲介業者は、我が社の口座開設にあたり、名義人を二人にするとの事だった。我が社と仲介業者名義で開設をする事は危険だと判断をしたので、阿浪にストップをさせた。仲介業者は問題がないと言うが理解ができなかった。万一、ホテルのお金が取られるような事になれば、私は生きて日本へ帰る事が出来ない。どうして、こんな不自然なやり方をするのかと尋ねると。
「反対に、お金だけを渡した後に名義を変えてくれなければ、私の会社は損害を被る事になりますよ」
と、言われたのだ。しかし、私は説明を受けていなかったので納得がいかなかった。
「では、なぜこんな大切な問題を初めに説明されなかったのですか。日本人は誰だって理解が出来ませんよ」
と。水掛け論となったので、直ぐに阿浪を引き返させた。中国のやり方と言われても、お金の問題だけは仲介業者に対して理解が出来なかった。名義が変わるまで出金はせずに口座に入ったままと言われても
「通帳管理が我が社ではなくて、仲介業者では誰が信用しますか」
と大声を出してしまった。
「我々が知らぬ間に引き出す事も可能ですから、何を言われようと引き下がりません」
この一言で、この契約は破棄する決心をした。売主と買主側での口座開設であれば、まだ少しは理解が出来るが、仲介業者と我が社の間では話が違いすぎた。阿浪が戻ってから、仲介業者の担当者と話し合いをしたが、契約を続行させる気など起きなかった。
「お願いします!売却をしてもらわなければ私の会社は、買主から入金されているお金に対して賠償金を請求されます」
と、何度も言われようと、私は断固としてこの契約をする気にはなれなかった。買主には直ぐに連絡をして、契約の白紙を告げた。買主側も、仲介業者のやり方は理解が出来ないし、購入しても手数料などは支払うつもりは無いと腹立たしそうだった。阿浪の大学時代の先輩が勤めている会社でも信用は出来なかった。
「阿浪!何をやっているのですか。あなたに任せて来た事は私も間違いでした。もっと、慎重な人だと思ってきましたが残念です」
と言うと、彼も下を向いて反論はしなかった。ただ、先輩が解雇をされてしまう事を心配していたようだった。
「阿浪、いくら先輩でも情は禁物ですよ!私の力で問題が解決できなくなれば、あなたも私も生きてはいられませんよ。いいですか、この話は終了します」
と、最後に言った私の言葉に対して、仲介業者の管理者も不服そうに帰って行った。その後、本社へ事情を説明したり、社長へ報告書を作成したりして一日が終わろうとしていた。社長は、
「理解をしました。白紙になりましたが、大きな問題が起きなかっただけでも良かったです」
と、私の対処について理解をして頂けたようだった。本当に長い一日が終わり、部屋で一人になりたかった私の気持ちを察して、阿浪も何も言わず自分の部屋に戻って行った。そして、この日から、再びいつもどおりの生活に戻ったのだった。


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