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『小さい先生』だった頃の話

↑を読んで、小学生の頃の自分は『吹きこぼれ』だったんじゃないかなぁとぼんやり思い出した話。

通っていた小学校は、当時全校生徒50人弱。クラス数4という、分校一歩手前の学校だった。

6学年あるのにクラスが4つしかないが、教室は1年生、2年生、3・4年生、5・6年生という振り分けで、中・高学年は複式学級になっていた。

複式学級は少し特殊だ。
1つの教室の前後に黒板があって、前の黒板と後ろの黒板でそれぞれの学年の授業が行われる。黒板が後ろの生徒は、授業中は机を後ろに向けて受けた。

ただし、先生は1人きり。

ホームルームや体育は合同だが、座学は前で先生が説明をしてる間、後ろ向きの生徒たちはプリント課題などの問題を解いたりする、という授業スタイルだった。

私は小学校の頃、さして勉強せずとも大体のことを理解していた。
漢字は本を読んでいたから知っていたし、計算は苦手だが暇つぶしに教科書を読んでいたから問題の解き方を理解していた。

なので、授業中に先生の代わりに同級生に教えるということをしていた。

先生が前で授業をしている時、問題に躓いた友達に「これはこういうことだから、こうすればいいんだよ」と、全部解き終わった自分が教えるのだ。
同級生は分からなければ私に聞くし、先生もそれをよしとしていた。

『小さい先生』の誕生だ。

昼休みも『小さい先生』は忙しかった。
学校ではパソコンで遊ぶことが流行っていたので、使い方をすぐに理解した私はそこでもみんなに教える役だった。

視聴覚室には古いパソコン8台と新しいパソコン1台があった。
新しいパソコンは取り合いになるので、時間で区切るように指示をしたりしていた。

新しいのはWindowsだったと思う。お絵かきソフトでみんなが遊んでいるのを横目に、PC-98のLOGO坊の命令文で絵を書いていた。
本に書いてあるサンプルコードを打ち込んだり、同じようにLOGOで遊びたい子には命令文の書き方を教えていた。

経済的な事情から塾も行ったことはないし、親は勉強する暇があるなら畑仕事を手伝えというし、休日も夏休みもほぼ畑仕事に駆り出されていた。

だから、さして勉強らしい勉強をしたことはない。教科書を読めばだいたい理解できた。

中学に行ってもそれは変わらなかった。
1学年3クラスと小学校に比べるとかなりの人数になったが、休み時間に友達に教えることはよくやっていた。

塾通いする同級生もいるなか、美術部に入って絵ばかり描いていたけれど、期末試験で学年10位以内は当たり前だった。

高校受験の時期、担任の先生は何度も親を説得していた。

島内で一番偏差値の高い学校か、本土の学校への進学を進めるためだ。
でも経済的に難しいので、親も私も家から一番近い学校を選んだ。

高校入試ではうっかりトップになってしまい、新入生代表挨拶をした。
人前が嫌いなので、勉強ができても良いことはないなと思った。

高校でも相変わらず絵を描いていた。
絵やデザインの仕事をしたいから、大学も美術系デザイン系に進もうと思っていた。
芸術家が無理なら教員免許をとって、美術の先生になるのもアリだと思っていた。人に教えるのはずっとしてきたから。

経済的な事情もあって、公立の受験しか許されなかった。
公立の美大に進むには、デッサンが全てだ。
3年になると入試に必要ない科目の授業は受けず、デッサンばかり描いていた。
夏休みには本土で短期の一人暮らしをしながらデッサンのレッスンに通ったりもした。

それでも学校のテストは常に上位だった。
高校の勉強は基礎ができてればなんとでもなった。

学校の勉強ができたって、経済的な問題が邪魔をする。
もっと勉強をしたかったと思うし、大人になった今から大学に通って勉強したいともたまに思う。

けれど、結果的に通った大学校でデザインの知識を身につけて、今はそれが仕事だし、仕事をするのは楽しい。
仕事も勉強しなければいけないことが多いので、それはそれで、という感じだ。

こうしてつらつら書いてみたが、大きな吹きこぼれではなかったな。
一番の問題はお金がないと勉強することができないという、日本の状況しか見えなかった。

日本から有能な人間を生み出す方法は、子育てと教育に金を使うことだが、死ぬ直前は積み上がった札束を見ていたいと願う残りの人生が少ない連中ばかりなので、きっと無理なんだろうな。

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