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prism

本が好き。
と言うよりも、いろんな人の思考を知るのが好き。自分の考えが絶対ではないと知る。と同時に、自分の考えが大多数と違ってもいいと知る。過去の考えが間違いだったわけでもないし、今の考えが永遠でなくてもいいと知る。

学生時代、周りの人たちのようにうまく喋れないことに強い劣等感を抱いていた。人と話すのが怖かった。でも実際、頭の中では誰よりもお喋りだったと思う。ずっと"何か"を考えていて、それはずっと自分ではない"誰か"を対象にしていた。「自分が何を言いたいか」ではなく「この人には何を言ったら受け入れてもらえるか」みたいな。そこには自分の思考が薄く、故に言葉にできない。ならない。だからうまく喋れずに、結果受け入れてもらえていないと感じていたのかなって。今振り返ると無意識に周りに合わせようとするばかりで、本当に薄っぺらい人間だったな、と。そう思う。

「受け入れてもらうために言葉を伝える」のが目的ではなく「自分の考えを伝えて相手の考えを受け取る」という目的を果たす、そのための手段の一つが言葉であり、その先に共感や団結といった受け入れ先があるわけだけれど、そのことに深く頷くようになった頃には、既に成人して割と何でも一人で平気に過ごせるようになった後だった。

「大人になりたくない」と言う子は、子供のままで居続けられる努力をすればいい。「老けたくない」と言う人が美容や健康を気にかけるように。でもきっと、そんな子に限って「大人はいいよね」なんて矛盾を言い出す。「大人は理不尽だ」とも。そんなことを言う子供が一番理不尽ではないか?と思ったりすることもあった。

でも、子供はそれでいい。
それがこの社会を生きる子供として、とてもごく自然に辿り着く思考回路なのではないだろうか。知らないことには懸念を抱くし、無い物ねだりだってしてしまう。とても人間らしい。私個人としては、大人も子供も筋が通っている人の方が、たぶん、好きなんだけれど、言葉にしたからには努力しなければいけないわけでも、矛盾してはいけないわけでも、はたまた理不尽が悪だというわけでも決してない。むしろその子自身がその時思った考えを素直に言葉に出来ている証拠なのだ、と。私が学生の頃には出来なかった凄いことなのだ、と。いつからかそう考えるようになった。そんな子を見かけると、その時のその子の考えを大事にしてあげたいとも思う。

「大人になる」というのはきっと、"その時"だけではなく"過去や未来も含めての今"を生きるということなのかもしれない。だから発言に責任や義務を勝手に感じたり、それを無理に押し付けてしまったり、矛盾していないか慎重になったり、気持ちが先走って話がまとまらなかったりするのかもしれない。"その時"の感情だけで物事を考えることが、ちょっと難しくなる。"その時"を捉えて生きる子供たちからしたら、確かにちょっと、そんな大人はいけすかないかもしれない。

こんな風に、知らず知らずに出来てしまう固定概念が私に劣等感を生み、それを溶かすものが読書なんだろうな。と、最果タヒさんの「コンプレックス・プリズム」を読んでいて思ったので、私も昔の自分を傷つけた劣等感に光を当ててみて、そこに見えた光を今、ここに書いてみた。

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今の思考の備忘録。
大人になって知識が増えても
自分の心は弱くて脆い。
すぐに劣等感が生まれる。
そしてまた自分を傷つける。
それでも強くありたいから
言葉を削り出してプリズムを作る。
きっとそこに反射した光が
また一つの曲になる。

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