wake
"何故"を徹底して考える。
それが、10年の月日の中で培ってきたあらゆる「答え」への導き方だった。
好きな理由。
嫌な理由。
失敗の理由。
成功の理由。
理由を知ることで、次に繋ぐことができた。
理由を知ることで、新たな発見があった。
理由を知ることで、気持ちが冷静になった。
理由を並べることで、やる気を保っていた。
だけどそれは私のやり方にすぎず、そのやり方を誰かに強要するのは違うらしい。そう思うと、急に自分の存在意義がなくなったように感じた。
言葉は虚しい。どれだけの思いが正しく伝わっているのだろうか。相手のやる気のなさが目に見える度、やる気を保つのが馬鹿らしく思えた。それでも言葉を投げかける。それは何故か…。
"何故"を徹底して考える。
そんな染み付いた習慣を持ってすれば、理由なんて幾つでも思いつく。ああ、なんだ、理由なんてものはいつだって、ただの自己都合だった。
だったらそれでいい。それがいい。きっと。
ワケもなく、ただ理由を探す。矛盾しているようなその行為の先に、自分に都合のいい答えが待っているわけだ。そりゃあいい。
言葉は虚しい。確かに虚しいのだけれど、どれだけの思いが正しく伝わっているのか、なんて考えるのはどうやら野暮な話らしい。大切なのは、どんな思いを持ってその言葉を使うのか、ということなんだろう。
そうやってまた、自分だけの「答え」を導いていく。私が私であるための大切なルーティーン。
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