あの丘の、あの木の下で、もう一度Ⅰ

会いたい。
ふとそう思った。
もう何年も会っていないし、連絡も取っていない。
今どこで何をしているかも分からない。
けれど私はもう一度彼に会いたい。

あの人に会ったのは真夏のとても暑い日だった。
蝉がわんわん鳴き、うだるような暑さと街の喧騒の中で彼の周りだけが静けさと冷たい空気を纏っているように見えた。彼はまるで冬のような人だった。

あの日私は何故あの場所にいたのだろうか。
よく覚えていない。
確か、買い物の帰りだったような気がする。
朝から気温がぐんぐん上昇し、昼頃には蜃気楼が見えるほどだった。
暑さに弱い私は汗だくで、どこか休める場所を探しながら、ふらふらと歩いていた。
すれ違った人と肩がぶつかった拍子によろけて転んでしまい、両手で抱えていた紙袋を落としてしまった。
さっき買ったばかりの野菜や果物があたりに散らばってしまった。ころころと林檎が転がっていくのをぼうっと見ていた。
ふとその林檎を誰かが掴んだ。
そのまま私の方へ歩いてきてその他のものも拾い集めてくれた。
『大丈夫ですか?』
そう言ってその人は手を差し伸べてくれた。
掴んだその手は氷のように冷たく、何故か懐かしい気持ちになった。
私が立ち上がり、散らばった荷物を紙袋に詰め、抱え直してお礼を言おうと顔を上げるとその人はもういなかった。

慌ててあたりを見回したが、人混みに紛れてしまったのか、その人を見つけることはできなかった。

ほんの数分の出来事だったけれど、私はあの短い時間を忘れることができなかった。
なんとなくあの人に会ったことがあるような気がして、必死に思い出そうとするけれど、結局何もわからなかった。ただ、一つだけ思い出したのは私がまだ小さかったときに出会ったある一人の少年のことだった。

私たちは何も知らないただの子供だった。

彼と出会った年、父の転勤で田舎へ引っ越した。元々人見知りでおとなしい性格だった私は転校先の学校で友達を作ることができなかった。
毎日ひとりで過ごし、放課後は誰にも見つからない私だけの空間を探して、色々な場所を歩き回っていた。

私が住んでいた家は緩やかな坂の途中にあった。
庭には金木犀が植えられていて、時期になるとミカンのような心地よい香りを辺りに漂わせていた。

坂の下には川が流れていた。
その川を海へと続く方に暫く歩くと小さな森がある。

森の中には木々の間から射す太陽の光を反射してきらきらと輝く小川が流れていた。
耳を澄ませると様々な音が聞こえる。
鳥のさえずり。木々が風に揺らされる音。小川の流れる水の音。それらが重なり合って自然の美しい音楽を奏でていた。

私はその森を見つけたとき、ひと目で気に入った。
ここが好きだ。
直感でそう思った。

森の中へ進んでいくと、草むらの中に細い獣道を見つけた。
その道の奥に小さな光が見えた。
光の見える方へ向かって歩いていくと急に景色が開けて小さな丘に出た。

その丘は、とても美しかった。
一面に花々が咲き誇り、花の甘い香りに誘われた蝶がひらひらと踊るように飛んでいた。
真ん中には満開の桜の木があって、花びらが雪のように舞い、周囲を薄いピンク色に染めていた。
通って来た森と反対側は崖だった。
崖のすぐ下は海で波の音と潮の香りがした。

夢のような空間だった。

あまりにも幻想的なその景色に見とれていると、どこからか、
ちりん、と鈴の音がした。
その音は桜の木の方からした気がして、そちらをじっと見ていると、猫の鳴き声と、ガサガサと木を揺らす音がして、黒い猫が木の上から飛び降りてきた。

金色の鈴がついた赤い首輪に、艶のある黒い毛並み、うっすら緑がかった青く澄んだ瞳。
この夢のような景色によく似合う、おとぎ話から飛び出してきたような美しい猫だった。

その猫はきっと、どこかのお金持ちの家で飼われている猫なのだろうと思ったけれど、私は勝手にその子をライラと呼ぶことにした。

私は毎日のようにその丘へ行った。私が名前を呼ぶと、ライラはいつも桜の木の上から飛び出してきて、私のところへ走ってきてくれた。

ライラはとても賢い子で、私が本を読んだり、花を摘んで花輪を編んでいるときは珍しそうにじっと眺めているだけで邪魔はしなかった。
時々、ライラはどこかへ行っているようで、さっきまで蝶々にちょっかいをかけていたのにいつの間にか姿が見えなくなっていることがあった。

ある日、私がいつものように丘へ行くと、ライラの姿が見えなかった。名前を呼んでも出て来てくれない。
今までそんなことはなかったから、なんだか不安になってあたりを探していた。
「ライラー!どこにいるのー!」
森の中にいるのかもしれない、と思い、丘を後にしようと森の方へ足を向けたとき、桜の木の方からライラの鈴の音がした。
振り返ると、見たことのない男の子がライラを抱えて木の下に立っていた。
少し色素の薄い髪と瞳。白い肌。細い手足。外国のお話に出てきそうなか弱い男の子がそこにいた。

「ライラ!」
そう呼ぶと、ライラは男の子の手からするりと抜けてこちらへ来てくれた。ライラが見つかったことに安心して、思わずライラを抱きしめた。
「ここにいたのね。よかった。でも、どうして返事をしてくれなかったの?」
と、ライラに聞くと
「みおは僕と木の上でお昼寝してたんだよ。」
見た目よりは少し低い、透き通ったよく通る声だった。
「みお?」
「うん。その猫はみおっていうんだ。美しい桜で美桜。僕が初めてここへ来たとき、あの桜の木から飛び出してきたから。」
私に抱き締められたままのライラの頭をそっと撫でて、男の子は春の風みたいにふわりと微笑んだ。
「私がここへ来たときも、ライラはあの木から飛び出してきたの。」
「美桜はここを守っているんだろうね。悪いやつに大好きな場所を取られたりしないように。」
ライラはこの丘の番人みたいだな、と思った。
「ライラ、あなた美桜って名前だったのね。勝手に名前をつけてごめんなさい。」
違う名前でずっと呼ばれているのはいい気持ちがしないだろう、と思ったのでライラに謝ると代わりに男の子が返事をした。
「いいんだ。僕の飼い猫じゃあないから。それに、美桜もライラって名前気に入ってるんじゃないかな。」
「あら、あなたの猫じゃないの?」
「違うよ。美桜は首輪をしているけれどずっとここにいるから飼い猫じゃないのかもしれない。」
ライラは大人しく私の腕に抱かれている。まるでそうされるのに慣れているようだった。野良猫ならすぐに逃げてしまうのに。
「あなたはだあれ?」
そういえば、男の子の名前を聞いていなかった。ライラに気をとられてすっかり忘れていた。
「僕はいつき。時々ここへ来るんだ。」
「私は杏奈。よろしくね。」
「よろしく。」
私たちはそうして出会い、友達になった。

いつきくんは私の2つ上で、学校には行っていないと言っていたけれど、とても頭が良くて、私よりたくさんのことを知っていた。花の名前、星座、私には分からなかった大人たちのこと。彼は私とライラが遊んでいるのを、木の上から眺めていたらしい。私は全く気が付かなかったけれど、ライラが時々どこかへいなくなるのは、いつきくんの所へ行っていたからだと知った。

いつきくんは、ライラと一緒に1日のほとんどをこの丘で過ごしている。お父さんとお母さんは怒らないの、と聞くと、少し悲しそうな顔で、お父さんもお母さんも僕がここにいることを知らないんだよ、と笑った。

よく晴れた秋のある日、彼に私の話をした。
「杏奈はどうしていつもここにいるの?」
「私にはライラといつきくんしかお友達がいないから。それに、ここが好きなの。ここへ来ると夢の中にいるような気分になれるの。」
「杏奈は前に僕の事を聞いたけど、杏奈のお父さんとお母さんは怒らないのかい。」
「分からない。お母さんはずっと前に死んじゃったし、お父さんは私が学校で友達ができないことを知らないもの。きっと仕事が忙しくて私のことなんて構っていられないのよ。」
「悲しく、ないのかい。」
「ちっとも悲しくないわ。お父さんは私が嫌いなわけじゃなくて、仕事に一生懸命なだけだと信じてるから。少し、寂しいときもあるけれど、ライラとあなたがいてくれるおかげで、今はちっとも寂しくないわ。幸せよ。」
私が笑うと、いつきくんも笑ってくれたけれど、すぐに悲しい顔になった。
「それは、よかった。けれど、美桜も僕もずっとはここにいられないんだよ。」
「どうして?」
「美桜はもう、そんなに長くは生きられない。僕のおばあちゃんもここが好きでね、おじいちゃんが死んでしまったときにここで美しい猫を見かけたんだって。僕はたぶん、その猫は美桜だと思うんだ。おじいちゃんが死んでしまったのは15年も前だって言っていたから、美桜はもう立派なおばあちゃんなんだよ。だから、もうすぐ寿命が来てしまうと思う。」
「そんな…。」
ショックだった。あんなに元気で美しいのに。大好きなのに。もうすぐいなくなってしまうなんて。大切なお友達を失うなんて。
「人間と猫は寿命が違うからね。同じ時間を生きられないのは仕方のないことなんだよ。とても悲しいけれど。」
「そんなの嫌よ。ライラは初めて出来た大切なお友達なのに。…ねえ、いつきくんはずっと私とお友達でいてくれるのよね?」
いつきくんは泣き笑いのような顔で、すがるように彼を見つめた私の頭をそっと撫で、小さく息を吸った。
「僕もさ、美桜と同じだよ。そんなに長くはここにいられない。君を一人にしてしまうのは僕も嫌だ。でも…。」
その時の彼はあまりにも弱々しく見えた。いつもの優しくてにこにこと笑っている、お兄ちゃんのようないつきくんとはまるで別人のようだった。
「いつきくんも…死んで、しまうの?」
「僕は…」
それだけ言うと彼は一旦黙り、深呼吸すると意を決したように私の目をじっと見つめて話しだした。

「杏奈。怖がらないで聞いてね。僕はね、人間じゃ、ないんだ。もう、生きていない。幽霊なんだ。」
「え…?なに、言ってるの?そんなわけ、ない、じゃない。私にはちゃんと見えているし、触れる。あ、ほら、足だってあるし。幽霊なんかじゃない。私をからかっているんでしょう?ねえ、そうだと言って。」
信じたくなかった。ひどく混乱した私は、ほとんど泣きながら何度も、嘘でしょ、嘘だと言って、と彼に詰め寄った。 
「杏奈。落ち着いて。僕だって嘘だと思いたいよ。でもね、本当の事なんだ。」
「どうして…。」
「君がはじめてここへ来る少し前の日にね、僕はそこの崖から海に飛び込んだんだ。生きることから逃げたくてね。」
「なにが、あったの?」
「僕はね、いじめられていたんだ。学校へ行くといつもみんなに笑われた。最初はからかわれたり、物を隠されたりするだけだった。でも、だんだん酷くなっていってね、最後はボールのように蹴られたり、ゴミや土なんかを食べさせられて…。」
「そんな…酷い。」
「そうだね。酷かった。すごく辛かった。でも、誰にも相談できなかった。僕のお父さんは厳しかったんだ。とても怖かった。僕が泣くといつも、男なんだから泣くなと怒鳴られた。強くなれって昔から言われていた。お母さんは僕のことを嫌いじゃなかったと思う。けれど、心が弱い人だった。すぐに怒ったり泣いたりして、僕が言うことを聞かないと殴った。お母さんは家事をしなかったから、僕が毎日学校から真っ直ぐ帰ってご飯を作って、洗濯をした。休みの日も家中を掃除してた。僕はお父さんが望んだ強い子にはなれなかったから、そうするしかなかったんだ。学校でいじめられているから行きたくない、なんて絶対言っちゃいけないと思った。お母さんとお父さんにがっかりされたくなかった。でも本当は、怒鳴られたり殴られたりするのが嫌なだけだったんだ。ダメな子だ、お前が弱いからだって言われるのが怖かったんだ。両親にばれるのが怖くて、学校の先生にも相談できなかった。僕は弱かった。結局最後は全部から逃げるように死ぬことを選んだ。」
私はなにも言えなかった。自分の悩みなんてちっぽけなことだと知った。今、私の隣にいる大切な人がこんなに辛いものを抱えていたなんて、想像もできなかった。いつも笑っている彼がどれだけ今まで苦しかったのか、想像しただけで涙が止まらなかった。けれど、私なんかより、いつきくん本人が一番辛くて、悲しくて、泣きたいんじゃないかと思ったから、どうすることも出来ない私は、ただ、彼を抱き締めた。ありったけの力と気持ちを込めて。
「辛かったよね。苦しかったよね。なにも出来なくてごめんなさい。助けてあげられなくてごめんなさい。」
泣きじゃくりながら抱き締めた彼の体は柔らかくて、冷たかった。
「ありがとう杏奈。君が謝る必要はないんだよ。僕が弱かっただけなんだ。強くなれなかった僕が悪いんだ。」
私の腕の中でゆっくりと話す彼の声が、少しだけ震えていた。
「いつきくんはすごいよ。あなたは決して悪くない。弱くもない。どれだけ辛くても学校に行くのをやめなかった。お母さんとお父さんを責めなかった。だから自分を責めないで。あなたはとても強い。」
そう、彼は悪くない。誰も悪くない。
「僕はまだ死にたくなかった。本当はもっともっと生きたかった。やりたいことも、行きたいところも沢山あった。死ぬことを選んだのは僕だ。いじめに、恐怖に、自分に負けたのは僕だ。自分を責めないなら誰を責めたらいい?僕が悪くないなら、誰が悪い?僕が死んだのは誰のせい?ねえ、僕はどうしたらよかったの?」
それは彼の心の叫びだと感じた。けれど私はそれに何と返せばいいか分からなかった。彼の悲痛な叫びに答えられる言葉を見つけられなかった。
「それは…私には分からない。ごめんなさい。」
「いいんだ。君を責めているわけじゃない。ただ、僕が死んでもここにいるのは、未練があるからだと思うんだ。生きることを諦めきれなかったから。だから僕は、まだここにいる。」
「いつきくんは、成仏したいと思うの?」
「それは分からないけれど、どれだけ生きたいと願っても僕はもう死んでいて、生き返ることは出来ないのは分かる。僕は、ここにいるべきじゃない。」
きっぱりとそう言った彼はもう泣いていなかった。目尻にうっすらと残った涙が夕陽を反射してきらりと光った。
「杏奈、君にお願いがあるんだ。僕が死ぬのを手伝ってくれないか?僕は一度死んだのに、まだここにいる。今度はちゃんと、消えないと。しくじらないように、ね。」
いたずらっぽく笑った彼の笑顔を、私は今でもはっきり覚えている。
「あなたは大切な私のお友達だもの。なんでもするわ。」

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