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チェルフィッチュ『三月の5日間』

『消しゴム山』が面白かったので、チェルフィッチュ入門中。

9月に新作を観に行くということもあって、慌てて出世作&代表作を配信で鑑賞した。観たのは、2017年12月@KAATで上演されたこちらのリクリエーション版。

日本現代演劇の潮流を変えた代表作、完全なる”再創造”
90年代生まれの新キャストとともに放つ、集大成にして新たな挑戦が
“演劇”をふたたび覚醒させ、”私たちの現在”を浮き彫りにする


2005年岸田國士戯曲賞を受賞し、日本現代演劇界に大きな衝撃を与えた岡田利規/チェルフィッチュの代表作。活動20周年を記念して、代表作のリクリエーションに挑みます。2003年米軍がイラク空爆を開始した当時の社会と若者たちの日常を革新的な戯曲と身体表現で描き、世界30都市以上で上演されました。初演から10年以上が経ち、若者像も、都市も、情報の速度も、戦争との距離も変わったいま、もはや“時代劇”とも呼べる本作が、全国オーディションによって選ばれた20代前半の俳優7人によって新たに生まれ変わります。

作・演出:岡田利規
出演:朝倉千恵子、石倉来輝、板橋優里、渋谷采郁、中間アヤカ、米川幸リオン、渡邊まな実

<国際共同製作>
KAAT神奈川芸術劇場、ロームシアター京都、Kunstenfestivaldesarts

https://theatreforall.net/movie/five-days-in-march-re-creation/時代劇」

2004年の初演時にはイラク戦争。再演された2017年といえば、今に至るイスラエルのガザ侵攻やウクライナ紛争はすでに始まっていた時期だ。いつの世にも戦火は絶えないが、だからこそ、その時時における戦争との距離をはかる作品は必要となり、それはいつか「時代劇」から「古典」になっていくのだろう。


『遡行』を読む

チェルフィッチュ入門ということで、今回は岡田氏の著書も手に取った。

2004年初演された『三月の5日間』だが、作品誕生のきっかけは2003年の3月中旬に六本木のスーパーデラックスにて上演されていたモントリオール出身のアーティスト、ジェイコブ・レンによる「Unrehearsed Beauty / 他者の天才」という即興演劇(出演者がその場で思いついたことをしゃべる)を観たことだと記述がある。

僕はそのとき、イラク戦争が開戦する時期に六本木のとあるライブハウスで出会った男女が、そのまま渋谷のラブホテルに行って五日間を過ごす、というエピソードを軸にした芝居を書いた。実際の僕自身はあの夜ライブハウスからまっすぐ帰宅したけれど、あのときそのままそういうことになる人がいても、それは流れとしてとても自然なことのように僕には思えた。だから僕もそういった話をごく自然に書くことができたんだと思う。

ミラン・クンデラがたしか小説のことを、実際の自分には起こらなかったもうひとつのほうの可能性だ、と言っているのをどこかで読んだ記憶があるんだけれども、『三月の5日間』のことを考えると僕はときどきその言葉を思い出す。

『遡行』p191

また、『三月の5日間』という芝居のタイトルはサンガツというバンドの「Five Days」から取られているそうだ。

日常の過剰な身体

さて、チェルフィッチュといえば独特な言葉としぐさだが、それについても分かりやすく解説されていたので、本題に移る前にここも引いておきたい。

言葉としぐさの関係は、つまりこうです。線が引かれうるとするなら、それは<イメージ>と言葉の間に引かれます。また同様に<イメージ>としぐさの間にもそれは引かれます。したがって、言葉としぐさとは、<イメージ>を介した間接的な関係をしか、結びません。

僕はこのことについて稽古場で「言葉としぐさとを、言葉が親、しぐさが子、といった親子の関係のようなものとしてはいけない。そうではなくて両者は、<イメージ>という共通の親を持つ兄弟のような関係なのだから、そのようにパフォームされなければならない」というような説明をすることがあります。

「遡行」p200(「ユリイカ」2005年7月号所収)

この<イメージ>という言葉は誤解を招きかねない。そのため、岡田氏はシニフィエと便宜的に定義した上で、シニフィアンであるところの言葉としぐさがひとつの身体の上に、都度一致したりズレたりしながら並行して走ること、そこに生まれるノイズを捨てず、その拮抗をスリルとしながら、日常の過剰な身体を提示することで演劇的身体を実現している。というのがチェルフィッチュの独特な言葉としぐさの解説になりそうだ。

日常の身体を舞台に上げるだけでは、演劇固有のリアリティともいうべき、過剰さを備えた身体の提示とはならないという批判が、一概に「静かな演劇」とくくられたものに対して、何となく向けられていて、対して、そこで過剰と言われているものはそもそもリアリティを失効しており、そのようなものを提示してももはや興ざめで何も生まれない、という考えもまたあって、両者が平行線を辿ったままという状態がずっと続いている、というような、最近の日本の小劇場演劇の「歴史」についてのおおざっぱな認識を、僕は持っています。

でも、ふたつの立場が必ずしも対立しなければならないものだとは、僕は思っていません。なぜならこれは、日常は過剰ではないという前提の上に成立した対立であるからです。そして日常は、過剰なのです。だから前提が成立していないのです、虚構における過剰さをまとった身体、に負けない過剰さを、日常の身体だってまとっています。そのことが明らかにされるような演劇の身体を作り、提示すること。僕のしている仕事というのは、たぶんそういうことなのだろうという気がします。

「遡行」p208(「ユリイカ」2005年7月号所収)

ここは特に唸った箇所。書籍、面白いのでオススメです。

『三月の5日間』の話法

と、以上のようなことを押さえていたとして、やはり最初は戸惑う。というのも言葉としぐさだけでなく、話法も実に独特だからだ。

チェルフィッチュの『三月の5日間』は、誰かから聞いた話の劇である一方、聞いた話を話すうちに伝達者である語り手が次第に元話者との区別を危うくしていく劇である。それはこの劇の台本が、おそるべき緻密さでカギカッコを制御していることからも伺いしれる。伝達者らしさと元話者らしさを揺らし続ける点で、『三月の5日間』は「話法の劇」ということができるだろう。そして先にも述べたように、われわれ観客は台本によって話法に出会うのではなく、俳優の声によって話法に出会う。俳優たちの実現する声の変化には、台本のテキストだけでは明らかにならないさまざまな話法のグラデーションが仕組まれている。その細部に分け入っていくためには、直接話法/間接話法という二分法では足りない。そこで、これら直接話法とも間接話法ともつかない話法、すなわち元話者の言葉と伝達者の言葉とのあいだを揺れ動く話法を、以後「近接話法」と呼ぶことにしよう。

https://chelfitsch20th.net/articles/156/

同じ身体の中で語り手と元話者が常に入れ替わる。これは、私たちが世界を伝聞によって認識しているということ、特に戦争などはニュースなど通じて間接的に知ることになるが、その戦争と私たちの距離を間接話法の中からいかに直接話法的に認識できるか、あるいは世界はそのまま間接話法なのか。ということとも関連があるように思う。

と思ったら、こちらの紹介にそのままズバリ書いてあった。

2003年、アメリカ軍がイラク空爆を開始した3月21日(アメリカでは20日)。この日を間に挟んだ5日間における、数組の若者たちの行動を語る戯曲。語るとは、文字通り「語る」であって、俳優たちが役を「演じる」のではないところにこの作品の最大の特徴と魅力がある。

六本木のライブで知り合い、そのまま渋谷のラブホテルに5日間居続けになり、たまに外へ食事に出ては、不思議と渋谷にいつもとは違う新鮮な感覚を覚えるミノベとユッキー。ミノベの友人で、少しばかり電波系の少女ミッフィーと映画館で出会うアズマ。渋谷の町を行進する反戦デモに「ゆるい」感じで参加するヤスイとイシハラ。

舞台に登場する男優1男優2と名づけられた7人の俳優たちのセリフは、たとえば次のようなものだ。「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつしらねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、」このようにして俳優たちは、行動の当事者となって物語を展開するのではなく、入れ替わり立ち替わりながら、彼らから聞いた話を観客に説明するというスタイルで、代話していく。

事件らしい事件の起こらないこの作品で試みられているのは、「現実的な表現」への真摯な模索である。まず、いかにもそれらしく「役を演じる」ことの演劇的な欺瞞を排除し、次に、いかにもセリフらしいセリフの嘘くささを取り去ってみている。

いま現在における、最も誠実な表現の姿勢を突き詰めたはてに現れたこの作品では、「戦争」という巨大な出来事と、ほとんど些末ともいえるリアルな日常を巧妙に対比させ、日本の若者たちの抱く、とらえどこのない現実感を見事に構造化している。

https://precog-jp.net/online/five-days-in-march/

『三月の5日間』リクリエーション版

若者の個性を活写する圧倒的なテキスト、話法によって流動的にシフトする感情。一瞬たりとも気が抜けない。観る方も大変だが、それを日常の過剰さをもって演じる方は当然大変だ。

チェルフィッチュの作品にとって、せりふと関係した役者の身体の動きというのは非常に重要な要素だ。言葉へのテンションがゆるむと、身体へのテンションも同時にゆるんで、総体としてのパフォーマンスが弱くなってしまう。また、その身体が、いかにも言葉をジェスチャー的に身振り化したような説明的なものでないということも、同様に僕らの表現のキモなので(略)

「遡行」

このリクリエーション版を作るにあたってはドキュメンタリー映画(「想像」)も撮られているようで、それも気になってきた。

自分は、身体の過剰さや話法に慣れてきた2幕(朝倉千恵子が演じるミッフィーちゃんが登場)からグッとのめり込んだが、最後には演じた皆さんが気になる存在に。渋谷采郁さんは最近良く見かける(濱口竜介作品とか)ように思うが、他の方も頑張ってらっしゃるのだろうか。

オリジナルキャストも気になる

ここまで来ると、新旧やっぱり見比べるべきではないかという思いがムクムク。こちらの記事では新旧の比較が行われている。

過去の上演を覚えている人は、まず冒頭からして驚くのではないだろうか。なぜなら最初に登場するのが板橋優里であり、彼女はラフな口調とはいえ、明らかに女性的な声で語り出すからだ。

 この劇は、語り手が誰か別人のことを話すうちになぜかその別人の声をまといだすという、奇妙な話法を持っている。そしてその話法には「俺」と言えば男性、「私」と言えば女性、という風に、多分に日本語に埋め込まれたジェンダーの区別が関わってる。たとえば冒頭の台詞で「なんでホテルにいるんだ俺、とか思って」というときに、「俺」ということばは明らかに男性の内言であり、それを男性の俳優が語るとき、それは語り手自身の内言なのか、それとも誰か別人の内言なのかが曖昧になる。「俺」という一人称を男性の語り手が語ることが、声の曖昧さを生む重要な鍵になっているのだ。ところが、今回のリクリエーション版では、この冒頭の場面をあえて女性の声で語らせる。大胆な変更だ。そしてこの変更に伴って、脚本には重要な変更がほどこされている。

https://chelfitsch20th.net/articles/1066/

なるほど、そういう変更があるのか。とは思うものの、やっぱりキャストの個性の違いやアンサンブルの違いも確認したいよなと思うので、暇を見つけてオリジナル版も観てみたいと思う。(赤ペン先生瀧川がオリジナルキャストだったとは…!)

日本人のための演劇

本作は世界30都市以上で上演されたということで、それに関して岡田利規の書いていたことがまた興味深かったので、最後にそれもメモしておく。

最近たまたま読んでいたJ・M・クッツェーの短編集『エリザベス・コステロ』所収の「アフリカの小説」の中で、はからずも示唆となってくれそうな一節に出会った。主人公であるオーストラリア人作家、エリザベス・コステロは、ナイジェリア人作家、エマニュエル・エグドゥとの文学講義の中でこう言う。「こんなに多くのアフリカ人小説家がいながら、いまだにこれといったアフリカの小説が出てこないのはなぜかしら?」そして、続けてこう言うのだ。「たとえば、イギリスの小説というのは」と、彼女は話し出す。「まずイギリス人によって、イギリス人のために書かれる。だから、イギリス小説になるんです。ロシアの小説はロシア人によって、ロシア人のために書かれる。ところが、アフリカの小説はアフリカ人によってアフリカ人のために書かれるのではない。アフリカの小説家たちはアフリカについて、アフリカでの体験について書くかもしれない。けれど、書きながら終始肩ごしに振り向いて、それを読む外国人のほうを見ているように、わたしには思えるんですね」

「遡行」p178

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