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参加と参画

こんにちは!

今日は、日常のつぶやきです◎

参加と参画について、思うことがあったので感情の備忘録にしておきます。


1.参加と参画?

「参加」と「参画」。良く聞かれる組み合わせの言葉かもしれません。

わたしは「参画」することがとっても苦手でした。

「参加」することは、ずっと得意なんです。

「知りたいな!」とか「やってみたいな!」と興味のあるものの体験に申し込んでみたり、実際に気になった場所に行ってみたり。

そこで感じる色々な感情を自分の胸に留めておくのが好きなのです。なので、進んで参加するタイプです。

一方、「参画」となると話は別で。

もともと人見知りがあり、自分から話しかけたり、輪の中に入って行ったりすることが得意ではないわたし。

その場に参加することはできても、そこで積極的に発言をしたり、自分から話題を振り出したりすることはとっても苦手でした。

「参画」を求められるような環境に出くわすと、心の中で「何か言わなきゃ…」「次はわたしの番だ…」なんて思いながら心臓はバクバク、緊張で手足が震えてしまったりするのです。

2.何事もなかったように。

かといって、「何事もなかったように」済まされてしまうのも不安になるものです。

「意見を言わない人は話す価値がない」「この人何言っても笑ってるだけだしな」みたいに話を飛ばされてしまったり、自分以外の人たちで話が盛り上がってしまって疎外感を感じてしまったり。

自分が参画することにブレーキをかけてしまったが故に発生してしまった状況であることを棚に上げて、「もう少し配慮してくれてもいいのに…」なんて身勝手な思いを抱いてしまう自分が居たのです。

相手からしてみたら、「わがまま言ってんじゃねえよ」状態ですね。(笑)

3.なぜ参画が苦手だったか。

そこで、なぜ参画が苦手だったかを、ヨーガで学んだ「客観視」の視点から分析してみました。

あの頃のわたしには、こんな気持ちがあったことに気づきます。

「変なこと言って、何言ってるんだろうって思われたらどうしよう。」

「間違ったこと言って、違うって言われたら恥ずかしい。」

…そうです。これらは全部、わたしが他人に抱いていた感情でした。

「あの人の言ってること、良くわからないな…。」

「あの人間違ったこと言ってるな。」

(ちょっと性格悪すぎますね。笑)

だから自分は「そう思われないように」予防線を張って、参画するのを避けてきたのです。

この想いの根底には、「間違っちゃいけない」「失敗してはいけない」「できないと思われたくない」などの完璧主義なプライドがあったように思います。

管理職を任され、様々な責任を抱え込む中で、わたしには変なプライドの鎧が身についてしまっていたのです。

4.人の目を気にしなくなってから。

そして会社を辞めてみて、気づいたことがあります。

「案外他人は、わたしのことなんて気にしていない。」

…そうなのです。

わたしが、他人に過剰に適応しようとしすぎていたあまり、周りの目が気になりすぎていただけだと気づきます。

みんな自分のことに一生懸命で、人のことをあれこれ考えている余裕などないのです。

「なんだ、人の目なんて関係なくて、自分のことだけ考えればいいんだ!」

そう思えた時から、参画することが苦にならなくなったように思います。

例え失敗や間違った発言をして、他人に何か思われていたとしても、その失敗や一言でわたしは何かを失ったのでしょうか?

何も失っていません。明日もわたしは、わたしで生きていくだけなのです。

5.知っているからできること。

わたしは最近、お勉強のためにヨーガのオンラインレッスンを受けています。

色々な先生が日替わりでレッスンを担当してくださり、もちろんヨーガのアーサナや呼吸法などの実技についても、大変勉強させていただいているのですが、「レッスンの進め方」の視点からも学ばせていただいています。

例えば「参加型」のレッスンと、「参画型」のレッスンでは、前述したように受講生の満足度が変わってくるのかなと思うのです。

「参加型」のレッスンでは受講生とのコミュニケーションが希薄になりすぎる恐れがあり、「参画型」のレッスンでは受講生に不要なプレッシャーを与える可能性があると思うのです。

人それぞれの価値観、考え方があります。

私自身、多様性に寄り添えるような努力をしていきたいなと思っています。

わたしの好きなミュージシャンのある1曲の歌詞に、こんな歌詞があります。

「泣いたことのない人から、泣かないでなんて言われたって、響かないでしょ?響かないでしょ。痛みを知る者だから痛みを和らげることができる力を持つ、言葉を持つ。」( ハダカノヒーロー / I-RabBits )

何事も、経験の蓄積だなと思うのです。

どっちが良い、どっちが悪いではなく、まるで折衷案のように。

押し付けるのではなく、ストレスを感じさせるのでもない。「ちょうどいい」にフィットするようなレッスンをひとりひとりに合わせて変化させられるヨーガの先生になりたいものです。

そうなれるように、日々努力だなと思ってやみません◎

それではまた。


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