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13年前の今日、から東日本大震災まで仙台に住んでいたお話

13年前の今日、2008年9月19日、
私と、当時8才の娘は、引越しのため、神戸から仙台に向かいました。

あれから早13年。

そして、今、神戸でこれを投稿するのは不思議な気もしますが、
人生は色々あって、豊かで面白いなぁ~と、
しみじみと、甘美な彩りを思い返しています。

5年ほど前に、仙台のことを振返り綴ったストーリーを、こちらにも。


☆☆☆☆☆


1.これからするお話は、全て本当のこと。

私が仙台にいたころ、
アロママッサージ主体のヒーリングサロンをしていて、

仙台のことをあれこれググっていると、
よくたどり着く人のサイトがあった。

リンクページなどでも、よくその人のサイトが目に入り、
「まただ!」という感じ。

その人の名は、もう忘れてしまったけど、
仙台駅のなかなか近くで、鍼灸院を経営されている、
確か、少し年下の、鍼灸師さんだった

その人の、大柄で眼鏡をかけ、
ちょっとクマさんっぽい頼りがいありそな風体や、
情感豊かな人となりを、ネットを通して目にして

それらのページが、街中で出会う、
仙台の若き個人事業主さんたちのブログやサイトに、
ことごとくリンクされている。

彼が鍼灸でやろうとしているのは、
体のメンテナンスだけでなく、
心、そして、在り方のメンテナンス。

「本当にやりたいことはちゃんとやれているの?」

という問いかけ。

むしろ、こっちの方がメイン。

これをやりたくて、彼はそのツールとして鍼灸を使っている、
ということなのだろう。

心の鍼灸師、もっと言うなら、魂の鍼灸師。

彼の思いのあれこれは、いちいち私の深いところに響いた。

私の思いや方向性と、彼のそれは、とても近いように思えて、
できるだけ早いうちに、彼に会いに行かなくてはと思った。

皮膚にわざわざ鍼を刺す??
そんな痛いことありえへん!

というビビリな私は、それまでも、そして今でも
鍼灸治療の経験はないが、

それでも、彼に会うために、
ここはひとつ、鍼に刺されにいきましょ!
とまで覚悟を決めていた。

そして、確か彼のブログにリンクされていた、
カフェ店主のブログもけっこう目にすることが多く、

ある日、この鍼灸先生ととても懇意なことがうかがえる、
その店主のブログを読んでいたら、

近々飲み会を開催するとのことなので、
娘と2人、参加してみることに。

一足飛びに、無数の鍼に刺されるよりも、
まずは、彼に出会えそうな所に行ってみよう。

あわよくば、そこで直接出会えたり、
何か情報が入るかもしれない、と思い。

そして、飲み会当日、彼らしき人はいないかな?と
ぐるっと見渡してみるも、見当たらず。

ちょっと残念に思い、ならば何か情報1つでも☆
と思いつつ飲んでいたら、

やはり彼の話題が上がり、1つの情報が手に入った。

彼は数日前に交通事故死した

という、晴天の霹靂が私を襲う。

仲間との飲み会で、仲間の待つ次のお店まで
自転車で向かう道中に、大型トラックに
巻き込まれ、即死だったと。

私が仙台に来た理由の1つが、その時消えてなくなった。


2 そうだ、仙台に行こう。夫との円満離婚に向けて。


・・・仙台に娘と2人で行こう、と決めた直後に、
仙台では震度6の地震があった。
確か、2008年の6月のこと。

すぐさま、仙台母や友人に安否確認を取る。
皆、無事だし建物被害もない、とのことで、
ひとまず安心はしたけど。

私が、仙台に行こうと決心した後、
その地震が起きる少し前から、

「一緒に手伝って」

と誰かに言われている気配がしていた。

それは、その依頼主が住まれ、根ざしている地域、
そこから始まり、ゆくゆくはかなり広い範囲、
一帯の人たちに働きかけていくことへの、

お手伝い要請。

そして、その人は仙台にいるのだとピンと来る。

阪神大震災を被災の経験がある私。

もう二度と大きな地震には遭いたくない。

なので、仙台での震度6の地震、には、
これから仙台に住もうというのだから、

少しもひるまなかった、といえばウソになる。

それでも、あんな大震災に遭うことは、
生涯で、もうあるはずがない。

と思うように努めて、仙台行きの準備を進めた。

そして予定通り、震度6の3ヵ月後から仙台に住み始め。

その、「手伝ってほしい」という要請主は
誰なんだろう?と、意識のどこかで探しては
いたので、

この鍼灸先生のページに行き着くたびに、

きっと彼が要請主かな
と、確信は日を追って強まっていった。


3.「彼は、数日前に交通事故死した。」


目の前で行き交っている言葉が、これは現実のことなのか
私は長い夢を見ているだけなのか、

あまりに唐突で、予想外すぎて、思考停止に陥ったまま
家に帰る。

私はわざわざあの場に何を聞きに行ったんだろう。

あの鍼灸先生のページがリンクされていた方々のブログを、
手あたり次第に探し読むうちに、浮かび上がってきたのは。

鍼灸先生は、確かに仙台で鍼灸院を経営していて、
そして、数日前に突然事故死した、ということ、

その鍼灸先生は、出会う人皆に慕われ、尊敬され、

そして何より、身の回りの親交ある人たちのことを
常に気にかけ、自分にできる事にベストを尽くされていた

という現実が、私の前ではただ空しく宙に浮く。
先生の思いの深淵のあまりの揺るぎなさだけが
ただ鮮やかに浮彫りになっていく。

一度でも、どうして私は
先生の声を聴けなかったのか。


どうして、思い立った時に、
すぐに会いに行かなかったのか、
と自分を責めた。

後悔先に立たず。

彼の言葉で、彼が何をどう話したのかを、
どうして私は、自分の人生に刻むことなく
今生きているのだろう。

それでも、鍼灸先生の思いを、
決して宙に浮かせてはいけない
との気持も生まれていく。
ここ仙台で、私にできることは何だろう。

できるなら、直接先生に聞きにいければと思えど
今となっては、すでにそれは叶わない願い。

その衝撃の日からほどなく、
不思議なことが起こり始める。

どういうわけか、その鍼灸先生の知人だったり、
お客様だった方々が、私のサロンにお客様として
1人、また1人とご来店されるようになる。

それは、施術前の会話で先生の話題が出て、
先生の知人であると分かったり、

施術が終わるまでに、鍼灸先生の気配をふと感じて、
もしかして、先生とお知り合いではないですか?
とお尋ねして、そうだと分かったり。

そういう、先生と面識や交流があったり、鍼施術を
受けていた方々から、直接、先生の人となりや
生前の言葉を聞くことになる日が、積み重なっていく。

鍼灸先生が、私のところに行ったらいいよ、と
知人やクライアント達に、あの世からメッセージを
送ってくださっているかのように。

「施術中に、先生ここに来てましたよね」と、
お客さまと、うなずき合うことも。

そんな、先生にご縁のあった方々とともに、
先生の目指していた所、に思いを馳せると、

施術者である前に、1人の人間として、

1人1人が、「これをやろう」と生まれ持ってきたことを
悔いなくやっていく人生を実現していくのを見たい。

という、ただシンプルな強い意志の塊だったのかなと
感じる。

そして、私もまたその思いに強く共感する。
思いの発端が、お互いにすごく似ていると感じたのだ。
共感が大きければ大きいほど、落胆の闇もまた深まる。

やはり、直接、生前の先生の声が聴きたかった。
時に、ともに飲みつぶれるまで語り明かしたかった。

先生には、やり残したこと、心残りが多々あっただろうと
ただ胸が痛んだ。

それでも、先生が事故で亡くなった日の数日前に
先生と近所の山をハイキングしたという、
先生とは精神世界の共有も多々あった女性曰く、

「今は、行きたいところがたくさんあっても
同時にその全部に行けるから、
皆の様子が一度に分かって便利なんだ」

と、先生は、急に肉体を離れることになった現実に、
そう落胆した様子も無いようだ、と。

1人1人にじっくり対応していく猶予はあまり無く、
急ぎ、全体を見通していく何か大きな状況が
迫っていることを、その時察知したことが、
鈍く思い出される。



4. ありえない”揺れ”に襲われる


その後、鍼灸先生のことを
当時の仙台で運営していたヒーリングサロンの
HPに書いてみた。会いに行く寸前で、先生は急逝されたこと、
その後、先生のクライアントさんや知人が
私のサロンにお越し下さるようになったこと。会いたい人がいるなら、
その会いたい人も、自分も、明日も生きている保証は
ないのだから、できるだけすぐに会いに行こう、と。そして、私自身は、離婚が成立し、関西に戻ることも
考え始めていた時期でもあり、
遅くとも娘の中学進学までには、西宮に戻ろうと
(西宮市立の中学校には給食がある、、)
考えていたので、

もし、私の所にいつか行こうと思って下さっている方は
できるだけお早めにお越し下さい、と。
早ければあと1年くらいで仙台からいなくなるので、と。

(その時点で、娘の小学校卒業までには、
2年以上はあったものの、なぜかあと1年以内かなと
思っていたら、震災により実際にそうなる結果に。)

そうHPに書いてから、やはり鍼灸先生の知人や、
先生の鍼灸院に一度行きたいと思いつつ、結局
行きそびれてしまっていた方々も、ありがたいことに
サロンにお越し下さった。

私が神戸から仙台に移ってからもサロンでやっていた
内容は、体の筋肉にアプローチするマッサージサロン、
ではなく、

むしろ肉体そのものではなく、最終的な落としどころを、
精神体を踏まえて設定し、肉体にまで反映させていく
施術が多かった。

一般的に言うとすれば、信念体系の書き換え、とか
トラウマ解消、かなと。

精神体とは、信念体系の状態、
人の考え方の骨組み、とも言える。

そして、ここは時間軸に左右されない領域なので、
ある思い癖のその発端は、過去世での経験
だったりすることも見つかったりする。

エーテル体、感情体、精神体、などの、
目に見えない電磁波的な体の領域にも、
皮膚表面から全て触っていくことが出来、

人間の全ての領域のうち、
その時にアプローチが必要な領域に、

その回の施術で可能、かつ
ご本人の許可のある範囲で収まるように
その都度カスタマイズしての施術をしていた。

このように、私のクライアントさんは、
信念体系を動かしたい意図を少なからず
お持ちだったため、

施術時のカウンセリングでも、もはや古い思い癖を、
可能な範囲でゆるめる方向で、進めていた。

それは、各々の本来求めている道、生き方に
少しでも向かえるように。近づけるように。

振り返ってみても、
かなり深いテーマを扱っていたものだった。

そして、東日本大震災が起こった。

震災の3日前に、お世話になったクライアントから
エンジェルが巡ってきた。

3日間、エンジェルと過ごして、3日後に3人に送り出す、
というもの。

普段なら、こういう物は丁重にお断りするものの、
なぜかこの時は、3日間、エンジェルのために
白いキャンドルやお花を飾ってholy space を作り、
キャンドルの火を絶やさなかった。

すると、不思議なことに、
純白のキャンドルのロウが、燃えるやみるみる、
コールタールのようにどす黒く変色していった。

数日前から夜中にちょっと揺れたり、
神戸のお客様からは、「地震大丈夫ですか?」と
メールをいただいたりの、ただならぬ空気の中、

知人が載った号の雑誌を、その出版社に直接オーダー
したので、後日、その出版社から送られてきた
無料の号外をふとめくっていると、

「アレクセイと泉」というウクライナの映画に
関連した記事に目が留まった。

そこは、チェルノブイリ原発の余波を今も受ける、
ベラルーシのある小さな村。

この村の学校跡からも、畑や森からも、
採れたキノコからも放射能が検出されるが、
このこんこんと湧く泉からだけは、
不思議と検出されない。

村人たちの、自慢げな
「なぜって?それは百年前の水だからさ」
という返答。

百年前の水の湧出、その事実だけではなく、
村人たちの「信じ切る力」もあっての、
放射能不検出なのだろう。

その泉の水の結晶を写した写真は、確かに
きれいな雪の模様になっており、

その隣に、東海第二発電所での放射能漏れ直後の
近辺の小川の水の結晶写真、、

有害なバクテリアの培養写真ように、結晶できていない、
一目でゾッとしてしまう写真。

そのページを眺めながら、

その年、2011年の初詣の、三宮神社で、
1年後は私はどこに居るのかを問うと、

西宮~宝塚の、私が一番好きなエリアの
夜景が浮かび上がったことを思い出したり、

初夢で、ある浜の名前が出てきたので、
検索すると、福島県のある湖にある浜の名前と判り、
ここの水が汚れるのでキレイにしなくては
となぜか思ったことを思い出したりした。

いよいよ、ただならなさが加速しているのを
感じ、居ても立ってもいられない中、

福島に原発があることは、
この時はまだ知らなかった。

そして、3日間ともに過ごしたエンジェルを
話が分かる神戸のお客様に送り出した日の午後、

今日中に確定申告しに行くぜ!
と、書類作成もラストスパートに差しかかっている時に
あり得ない揺れが来た。



5. これさえできれば他のことはできなくてもそれでいい


振り返って思えば、仙台に住み始める前から
感じていた、「一緒に手伝って」
という響きは、

どんなことが起こっても、後悔の無いように
自分が大事にしたいことを大事にする、
という信念を、少しでも広く提案したい
という事だったのかと思う。

私にとって、震災後に一番大事だったのは
何をおいても、これから成長期を迎える娘だった。


震災の数日後から、娘が、
これまで経験したことが無いという、
頭痛を訴え出した。娘の体の主要なツボをチェックするだけでも、
緊急事態モード全開であったことに衝撃を受け、
焦った。

外資系企業など、外国人の仙台駐在員達にも、
可能な限り早く本国へ戻るように、との
通達が相次いで出たことも、耳に入った。

私自身も、震災後の部屋の片づけなど、
毎日慌ただしい中、
阪神大震災を経験していたからなのか、

この疲れはただの震災疲れなのか、
また別の要素も加わっての疲れなのかの
判別はついていた。

自宅兼サロンは、地震による建物被害により
いつ業務再開できるか見通しが立たない状態。

生活するにも、仕事をするにも、引っ越しは必須、
と分かった時、思い切って兵庫県に戻ることにした。

それが震災の1週間後のこと。


仙台空港が水没したため、フライトの前日から
バスを乗り継いで山形の鶴岡入りし、
庄内空港から羽田に向け出発する時、

不本意に突然、東北の地を去ることになった
無念さが押し寄せた。

結局私は、仙台で何もできなかった。
でも、私は娘を最優先したことを後悔していない。

途中で投げ出して、自分だけ逃げ帰ったと言われても、
言われなくても、皆にそう思われていたとしても。

娘を第一に考え、行動すること、
ただそれ1つしか出来なかったとしても、
それでいい、と、私はそれを選んだ。

もとは、私の都合で勝手に仙台に連れてきたのだ。
それを、せっかく仲良くなったお友達と、
最後に会って直接お別れの言葉も言えず、
兵庫に向かわせた。

私は母として一体何をしているんだろうと、
結局は自分の都合を正当化しようとしているだけ
のように思えてならず、

自分の身勝手さと無力感に、打ちひしがれた。

それでも、娘にとってベストな選択が何だったのかは
いずれ娘自身が決める事。

結果的に、私が娘にとって、
べストな選択ができていなかったとしても、
それを娘に責められる日が来るとしても、

その時点で、真剣にベストだと選択した、

兵庫県に戻る、という事に責任と自信を持ち、
娘を見守っていく覚悟を決めた。

その一方で、一番気がかりだったのは、
被災地の子供たちのこと。

一時的であれ、避難を考えているなら、
私にできることは何でもする事を
伝えた母親たちから、一言も避難についての
言葉は出なかった。

きれいごと抜きで書くなら、
正直、子供を第一に考えられない親の多さに
落胆した。

誰に何を言われようが、見ず知らずの土地で
子供を連れて自主避難している母親たちも
いるのに、と。

ただ、私が兵庫県に戻ったことが娘にとって、
ベストかどうかは分からないと思い至ったように、

その場を離れることが、皆にとってのベストとは
限らないという事実。

子供は、親を選んで生まれてくる。
それぞれの親の選択に任せるのがベストなのだと
思うようになった。

親が責任と覚悟を持って選択したのではないとしても。

それによる結果を受け取る子供は、
それにもすべて同意した上で、その親を選んで
生まれてきたのだ。

このことを思うだけでも、新たなチャレンジを
選ぶ魂たちの、真摯な思いを聞いた気がした。

私はなんと狭い見方をしていたのだろう。

俯瞰できて初めて、目に入ってくるのは、いつも、
ただシンプルな事実なのだ。



6. 唯一無比のツール


人間には誰しも、
自分の人生の目的を達成するために
必要な目に見えない力(ツール)を
1つずつ持って生まれてきている。

このツールは、人間の数だけある。
これら1つ1つが、唯一無比で、
1人1人が、このツールを使ってやる事は
他の誰にもできず、真似すらできないので、

人間は皆、自分のツールの唯一無比の
所有者であり使い手でもある。

これは、
生まれながらに使えてしまう人もいれば、

そのベースは確かに持っているけど、
それをツールとして使えるようになるには、
ある時期、その道の先生について鍛錬する
必要がある人まで、

人それぞれに違いがある。

また、人間皆が、このツールを使う、
使えるようになるという共通のテーマがある
という事ではなく、

人生において使う必要がなければ、
ツール立ちさせず、ツールの存在自体に
気づかず一生を終える人たちもいる。

また、仕事で駆使している人もいれば、
仕事ではなく趣味など、仕事以外で
使っている人もいたり、さまざまな
パターンがある。

私の場合のツールは「核心に触れる」
ためのツール。

私はこれを使って、瞬時に、
そのものの根源を捉える。

これは、誰に教わったでもなく、
無意識に幼い頃から
私にアタリマエにある、癖、
ともいえる。

あまりにアタリマエすぎて、
それを無意識に使っていることにも
気付かず、だから当然、

長らくそれが私独自のツールなのだとは
思いもよらなかった。

そして、核心の捉え方が、
あまりに根源どストライクなために、

例えば捉える対象が、1人の人間の場合、
その人の魂の発生の起源の、
時間軸も超えた領域を瞬時に掴むので、

今回の人生では、
必要が無かったり、テーマにない情報を、
まず強く察知してしまうこともあった。

なので、目の前の人が、
自分の感じた人とは違う?
と、自分の目を疑うことも時にあった。

その手の経験は、若い頃の方が多く、
人に接するのが難しいと、
時に、感じていた記憶がある。

そして、西宮のラウンジで
夜のバイトをしていた20代前半、

そのお店は、客層が良く、
近辺の富裕層が多く来店しており、
個人営業は不要だったので、

腰かけバイト女子にはありがたい
品の良いお店でもあった。

それはさておき、私を特に席に呼んで下さる
経営者方々がいらした。

その方々は、代々の事業を引き継いだ
2代目以降の代表取締役ではなく、

ご自身で事業を立ち上げ、
一代でかなりの資産を築いた、
現役の馬力ある事業主であることが
多かった。

彼らの皆がもれなく、今で言うなら、
スピ能力が高かった。

私の、個人的かつ、私がそれを口に出さなければ、
他の人は絶対に知り得ない事を、
初対面でさらりと言ってのけるなどは、
茶飯事だった。

私とは、社会的地位も年齢もかなり違う
方々なのに、なぜか不思議と話が合った。
というか、合わせて下さっていたのだと。

他の人には、
「また訳わかんないこと言って^^;」
と話が通じないところを、

「うんうん、それで、こうやね!」と、
私が意図したとおりにくみ取って下さった。

時には、私だけに分かる言葉で
話して下さる場面もあった。

それは本当にもう、神様の言語、
のように。

君は、いずれ自分で仕事を始める人間やからね、
と、折に触れ、厳しい言葉も含め、
色んな話をして下さった。

これらやり取りに、これまで何度、
気持ちが救われたか知れなかった。

あの時、どうしてわざわざ当時の小娘に
色んな話をして下さったのかと、
今になって振り返ると。

私の、瞬時に根源を見てしまう癖を
彼らは察知して、その癖に私自身が
まだ気づいていないし、

だからこそ判断に迷って、
自分に自信が持ちにくかったり、
人間関係が大変に思うこともあるだろうな、
というふうに見えていたのだろう。

なので、

私らは分かってるよ!
だからこの先、どんな道を辿っても、
それが王道に続くように進んでいけ

という、エールだったのではと思う。

その後、結婚し、娘が生まれ、
セラピストとして立つようになり。

様々な学びの中で、私の生まれながらの
ツールを紐解く機会が出てきた。

その時に、私は無意識に自分独自のツール
を使って、物事の核心を見ていることを
初めて意識でき、

そういえば、
「これ誰にも言ってないのに、何で知ってるの?」
的な友達の発言を思い出したりした。

確かに、このツールをこのままだと、
今の人生の時間軸では間に合わない
(今、必要のない)領域まで見てしまう
ことがあるな、と。

そりゃ、目の前の人が、別人ってくらい、
言ってることが見た目と全然違うぞ?
という、混乱の発端になってしまう場合が
あったことにも、納得した。

プロのセラピストとして、
自信を持ってやっていくには、
何でもかんでも、根源的なコアを見る
というデフォルテ設定だけではなく、

「適切な領域のコアを見る」
という設定に、ツールカスタマイズをする
必要があった。

そして、「今回の人生の「計画通り達成」
に必要なこと、という観点から見た今」
から、他の人を見ていくことに慣れるにつれ、

「あなたが今、嬉々としてやっている事は、
今の人生の魂のコアが言ってるのとは
全然違うことじゃない?」

というケースもけっこう多いことに、
気付いていき、ある意味愕然としていく。

人生の計画って、
色んな紆余曲折も含めての計画なので、

今は一時的に、本来の道とは真逆や、
かなり斜め路線のことをやっている、
という時期も、人それぞれ確かにある。

でも、今の時点で、
あなたがそれを選んでるってことは、
人生の計画とはそもそもズレてるよね。

って場合が予想に反して多く見られた。

私が、核心に瞬時に触れるツールを
持っている理由は、ご縁ある人達が、
それぞれの王道に向かう様子を見たい、
という個人的趣味の強さから。

なので、私と出会う、ご縁ができる可能性
がある、ってことは、

自分の核心を再確認した上で、
自分の道を選択する、っていうテーマや
欲求があるからでもある、のだけど、

そういう無意識の意図から、
せっかく出会えても、

「自分の本意に気づいたら都合が悪い
→本来の本意よりむしろ、自分のエゴ(傷)
を満たす今の活動をやめたくない。

だって今のこっちのやり方の方が儲かるよね?
こっちの方が、目立つし、人にもちやほや
されて、感謝もされるよね?
やめられるわけないじゃん!」

という個人的エゴベクトルの方が、
今回の人生の真の計画遂行ベクトル
よりも大きい人たちは、

こぞって、見事に私とは距離を置き始める。

とても分かりやすいけど、
私にとって、
これはけっこう辛いことでもある。。

せっかく出会えたのに、
出会わなかったことにして、
そっち(違う方)に行っちゃうんだ、、

と、思っても、私は何も言わず、
去るものは追わず。

ただ、現実としては、
その、「エゴと魂の本意」の判別基準を、
すっかり忘れて生まれてくる人が、
大多数だということ。

この重要な判別基準を忘れた状態で、
自分の本道に行きつくのは
なかなか大変だけど、忘れて生まれてくることを
選び、生まれ生活している人が多い現実。

厳密に言うと、生まれてくる寸前に、
その基準をすっかり忘れてくるのではなく、

人間には皆、ダウンロード済みだけど、
それをインストールもされた状態で
人生を送っている人は、
本当のごくごく少数だという現実。

ということは、ダウンロード後に
インストールがなされていない状態で
生きている人が大多数という事。

(それがいい悪いではなく、
あくまでも各々の魂の選択。)

でも、死んで、魂が肉体から抜け出たら、
肉体の死、が、アンインストール解除の
スイッチとなり。

さっきまで生きていた自分の体には、
生まれてくる前に自らアンインストールを
かけたけど、

魂自体には、実はインストールも
されているのを、ようやくもれなく
皆が思い出す。

これがまたタイミングが悪いことに。

「またやってしもた、、」

と、ついさっきまで人間やってた
何十年間に、どうして自分は、

あの事に、あの人に
せっかく出会っていながら、
重要だと気づかずに通り過ぎてしまったのか、、

と激しく落胆するものの、時すでに遅し。
こう思う魂である自分が、
さっきまで宿っていた肉体は、
もう滅びて、すでに無い。

これまでも何度も通り過ぎて、
後悔し尽くして、今回こそは!
と生まれてこれたのに、
またこれに気付かずに人生を
終えてしまった。。

さっきまでの人生で「やろう!」と
決意して持って生まれたテーマは、
取り組めず出来なかったのだから、
また次以降の人生でやり直すことになる、、

でも、せっかくこのテーマをやるために
出会えた物事や人に、次回このテーマを
やる時に、また出会える保証はどこにもない。

魂それぞれにテーマがあり、
自分が再度これをやる人生を地球で
始めたとして、同じ時期に、
相手が地球上の出会えるところで
人間をやっているとは限らない。

私自身のことを言えば、いつもそばで
見守ってもらい色々相談し合いたい、
ある魂は、今は人間として生きていない。

仙台の、出会いたかったのにタッチの差で
事故死され、出会えなかった鍼灸先生と同じく、
今のこの時代を、地球上の人間としてでなく、
今行きたいところに同時存在できる状態を
選んでいる。

これは「会いたい人に会えない」
1つのケースで、ある意味悲しいこと
かもしれないけど、

もし、前述の彼が、今人間としての人生を
送っているとしても、彼自身の魂の計画には、
今回の人生で私とリアルに出会うことは
入っていなくて、やはり出会えないのかもしれない。

そうなんだ。

出会いたい人にちゃんと出会えたら
気付かずに通り過ぎている場合じゃない。
これを逃したら、本当に二度と会えないかも!

でも、現実には、通り過ぎまくっている
世の中の現状。

1人1人は、そんな事には全く気付いて
いないようでも、無意識下や魂は、
「あ~あ、通り過ぎちゃった、、」
と嘆いている。

その自分ですらも全く気づかない嘆きが、慟哭が。
そして、長い長いすれ違いの時を経て、
ようやく出会えた感動の大きさも、
身に染みて分かっているからこその、
魂の根底からの震えの記憶が。

映画「君の名は」を見て号泣させる。

人は、全く自分に身に覚えのない、
全く自分の中に無いことには反応
したくても、できないものなのだ。

映画の稀有なストーリーに感情移入して
涙があふれたのではなく。

まさに自分も、いつかどこかで
同様のことをリアルに体験している
という証の、涙なのだ。

「君の名は」という映画が、
今この時に出てくる意味。
そして、これを観て多くの人が
号泣しているという現実は、

映画中の特別なストーリーではなく、
自分も何度も無意識に経験している、
ありふれたごく普通の、

出会えたり出会えなかったりの
日常というドラマなのだ。

そして、本当に出会いたい人に
ちゃんと出会っていこう!という
すべての人に向けたメッセージでもあると。

出会えず、出会っても気付けず、
人生を終えてしまった後に、
ようやく気付いた時の落胆は、

気の遠くなるような時間を経て、
次に出会えた時の感動を、
色濃く強烈に彩る。

私自身、生前の仙台の鍼灸先生に
出会えなかった後悔を肝に銘じ、
出会いたい人にはちゃんと
出会っていく決意を、新たにしたところ。

そんなこんなの、ごく個人的な
暑苦しい前提を以って。

せっかく出会えた方々には、
ご要望あれば
今回の人生の王道を歩むための、
私にできる限りをお伝えできれば。

直接、具体的に何かをお伝えする
のではない場合でも、あなたの王道に
反して、横道にそれるのを助けることは、
どんな場面でも私は口にしないことを、
約束します。

なので、真の自分を生きる覚悟をした人
へは、もし表向きに耳障りのよくない話が
私の口から出たとしても、
逆に、私が何も言わないとしても。

全ての場面において、あなたの魂との協議に
沿っていることを、約束します。


7. 私の、濃い人間関係好きが育った暑苦しい土台は。


今から思えば、私の保育所からの幼なじみ達とは
本当の兄弟のように育ってきた。

「友達」というにしたって、常に本音トークが
当たり前の、かなり濃い関係が展開されていた。

ぼやけた事言っていたら、
「それ本心から言ってる?」と

即座にツッコミが入ったものだった。
男女とても仲が良く、
男子ともかなり深い話もしてきた。

普通に、けなし合いをしているようで、
親くらいしか言ってくれないような
口にし辛い忠告をしてくれていたり。

表向きどう見えるとしても、
行きつく先は、相手のため。

今から思うと、幼なじみ達は、
ヒーラー集団だったのかもしれない。

それくらい、深い濃い、表面的では全くない
人間関係が普通だったので、

高校や短大に入ってから以降の、
友達との関係性が、薄く感じられ、
とまどいや寂しさを感じたものだった。

一方では、
小学校を卒業する頃まで、毎週土曜の夜は、
車で5分ほどの親戚宅に、親戚たちが集まっての
宴会がお決まりだった。

カラオケはハチトラの時代からフル装備してあり、
余興用のカツラやフェイスマスク、
コスチュームまで各種取り揃えてあり。

皆、陽気な大人たちで楽しかった。

料理は、お店から取っていたものもあったけど、
宴会会場宅のおばちゃんが、毎回かなりの種類と
量の料理を作ってくれていた。

巻寿司、ちらし寿司、ポテトサラダに、カレーなど、
子供たち用にも、毎回色々作ってくれていた。

その宴会には、親戚ではないけど親戚顔で、
遠慮のカケラも無く参加しているおじさん達もいたし、

もはや、誰が親戚かそうでないかが分からないくらい、
その場の皆が、なじみまくっていた。

私の原点は、ここ。

宴会のたびに、楽しくて、家に帰りたくなくて、
お開きの気配がすると、よくタヌキ寝入りをして、

「このまま寝かして帰れぃ~」とのおじちゃんの声に
家族が帰ったら、宴会宅のお姉ちゃんの布団に
転がり込んだりした。

翌朝、宴会宅おじさんの腰を踏んでいたら
(2年生ごろの体重軽い時代まで)、
母か父が迎えに来てくれた。

親戚同士の気遣いのない関係、
血のつながりはなくても、親戚みたいな
つきあいになってしまう関係。
気の合う同士だけで集まる、気遣いのない関係。

馴れ合い、というのとは違って、

身内だから自然と親身になってしまうし、
だからこそ、時に耳の痛いことも言うよ、
言ってよね頼んだよ、という信頼関係。

こういうのが嫌いな人は、スルーいただけばいいし、

こういった関係を経験したことがないけど、
どんなか興味がある、経験してみたい、
という人もひっくるめて、出会えて、集まったり
できる機会があれば。

皆が気持ちよく楽しむために、気をつける点だけ
守れば、あとは好きに自分を出し合っていければ
楽しいかなと。

私が料理にこだわるのは、
私という人間を信頼してもらうのに
一番手っ取り早いのは、

私が作ったものを食べてもらう事だからかな、
と思う。

とはいえ、かつてのおばちゃんのようには
手際よく料理を作れるとは思えないけど。

それでも、私には、能登女の血が流れている。

能登女は、無類の働き者。

「私は料理は苦手で下手だから。」
と豪語する母ですら、私の10倍ぐらいは動く。
冬の毎朝のお味噌汁は、必ず粕仕立て。

そして、お盆には、全部自分でやってしまう
旅館の女将のような働きぶりだった、
母方の祖母。能登島出身。

軽く私の100倍は働く。

そして、その母方祖母を、「気が利かなさすぎる!」と
いつもイビリ倒していた、母方曾祖母。
私が生後2ヵ月の時に没した。

働きぶりは、推定私の1000倍。

彼女は、夫が早死したため、女手1つで8人の子供を
商売で育て上げ、料理の腕の凄さは商売だけでなく、
近所のやさぐれ若い衆たちを集めて、ふるまっていたそうな。

最初はやさぐれていた若い衆たちも、そのうち、
曾祖母が力仕事が必要な時に、駆けつけてくれたり、
他の人に対しても、役立つ働きをするようになっていった。

その中の1人、曾祖母が亡くなってからも、親戚同然の
付き合いをしていた、赤ら顔のかわいいおじさんは、
昨年亡くなってしまったけど、

親戚以上に、ひ孫の私たちにまで、いつもニコニコと
とてもよくして下さった。

おじさんの作る、能登コシヒカリを食べたら、
他のお米は食べられないほどだった。

そして、娘に、母の働き者ぶりを話をしたら。

「ふーん、お母さんの10万倍やな」

母方祖母の話をしたら。

「へー、お母さんの100万倍やな」

母方曾祖母の話をしたら。

「ほぇ~、お母さんの1000万倍やな」

と、自己評価×万倍で言い放たれる始末。

。。。能登女の血はいずこに。

自宅にお客を招いても、元来の人使いの荒さも
手伝ってか、必ずお客に台所を手伝ってもらう
ことになってしまう。

逆に、私が招かれた時は、お手伝いに入ろうにも
座ってて、と言われるままに本当に、座っていることが
多いのはどうしたことか、、

こんな、ゆるい感じですが、気が合えば
ともに色々と語り合い、
遠慮なく出会いたい人全員に
出会っていきましょう。


いったんfin

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