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何者かになれない呪い 大人になれない自分

青年期を脱せない


何者かになりたい、この気持ちは、今時の若者にはよく見られるものらしい。
お察しの通り、わたしもそんなむなしい若者のひとりである。

          ⁂

たったの数年前までは、努力すれば何かしらを達成できて、自分の望む何者かになれるのだと、無邪気に信じていた気がする。
今になって思えばあまりに曖昧で馬鹿げた考えだ。
しかし、わたしはわたしのわずかな可能性を盲信していた。
外見も良くないし、コミュ力もない、スポーツもできないのなら、せめて学業か仕事では報われるだろうと信じて生きてきたのだが、どうやらこの人生はそううまくゆかないらしい。
(わざわざ”この人生”と加えるのはわたしが失敗した全てを成功させる人間もいると知っているからだ)
誰もが知る真実にようやく気がついて、今後の人生をどう歩んだものか、途方に暮れている。

          ⁂

わたしは、仮に生き続けたとして、今後一生を“モブ”であり続けるだろう。
名無し、あるいは名を忘れさられる前提の存在である。
モブは主人公たちがあれやこれやと活躍し友情や愛情を深めあう背景にあって何も成さない。
まさにこれまでの(そして今後の)わたしではないか。
わたしはあまりにも何もできなくて、周りが自分より輝かしく、自分の人生においてさえ、自分が主人公とは思えない。
いや、モブでさえないのではないか?
親族以外の誰かの結婚式に着飾ったわたしが参列しているのを、わたしは想像できない。
誰かのインスタに載ることも。
写真の片隅にさえ、わたしの姿が存在し得ないように思えるのだ。
むろん、写真の中央にいることはない。
かといって、撮影している側でもない。
わたしは何も成さないただの空白である。

          ⁂

よく考えてみれば、”モブ“であるのは、ごくありふれたことじゃないか?
この世の“モブ”であることを受け入れて人は大人になるんじゃないのか?
自分は何者かになれるだなんて信じるのは、子供のすることなのだ。

          ⁂

わたしは何者にもなれない呪いを受けて生まれてきた。
わたしの大小さまざまな願いは、わたしの努力を問わず、叶わないことがあらかじめ決められていた。
そして周りの人生の主役たちがいとも容易く望みを叶えてゆくのだ。

わたしは、このままひとりで、両手に何も掴まず生き続けるだろう。
数少ない知人たちは、職場が変わり、結婚すれば疎遠になってゆくだろう。
両親と、場合によっては体の弱いきょうだいも先に死んでしまって、ひとり取り残されるだろう。
覚悟しなければならないとわかっている。
それでも、わたしの存在証明が墓石にさえ残らない可能性を思うと、空虚だ。

          ⁂

わたしが2人いるのを感じる。
ひとりは何者かになれる可能性に縋ろうと、いまだに足掻いている。
もうひとりは人生を諦めきれずに必死なわたしを笑っている。
そこの線路に落ちてしまえと。
世のごく一部でも、一瞬でも、ざわめかせてみせろと。
今のところこの煽りに応じてはいないが、それしかわたしが一花咲かせる術はないとわかってもいる。

          ⁂

こんなことを書いたらかまってちゃんみたいだ。
なお、わたしは精神科にかかろうと思うほど苦しんではいない。
日々飯を食い、夜に数時間は寝て、昼に外出もする。
毎日淡々とわたしの普通をやっている。
しかし幸せでもない。
ここには何もない。

          ⁂

今日も24時になれば一日が始まり一日が終わる。


こんなことを書いて、自分の醜い部分を晒して、どうしようというのか。
この投稿になぜか大量のスキがついたりなんてしない。
自分には才能がないと知るだけなのだ。
そうわかっていてもなお淡い期待を捨てきれないのはなぜだろうか。

いつかはわたしも大人になれるのだろうか?

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