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第29週 教育者 宮城 まり子



はじめに

第29周目の教育家は宮城まり子さんです。






お生まれと子供時代




宮城 まり子(みやぎ まりこ)さんは、1927年3月21日 本目 眞理子(ほんめ まりこ)さんとして東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区)に2人姉弟の姉としてお生まれになりました。


お父さんの仕事の関係で、小学校3年から大阪で育たれます。

小学校5年の時、お父さんが事業で失敗し、お母さんが病死されています。

そのため小学校卒業と同時に、弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになられたそうです。



戦時中の1944年10月、宮城千鶴子の芸名で17歳で大阪花月劇場(吉本興業直営)にて初舞台をまれます。



その後、自らの一座を率いて九州を巡業して終戦を迎えた。戦後の1948年、お父さんと、弟の八郎と上京され、浅草の舞台に立った。

翌年、菊田一夫氏の推薦で日劇の舞台に主役として迎えられました。

歌手としてのご活躍


1950年2月 テイチクから「なやましブギ」で歌手としてデビューし、ポリドールを経て、ビクター移籍第二弾『あんたほんとに凄いわね』が初ヒットになります。


そして、1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が流行し、一躍歌手としてその名が知れ渡ったそうです。


1955年には、後のレコード大賞作詞家・宮川哲氏夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットしました。
その後も『納豆うりの唄』『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発されます。
弟八郎氏は宮城秀雄の名前で作曲家として活躍されます。

NHK紅白歌合戦にも1954年の第5回から1958年の第9回までと、1960年の第11回から1962年の第13回までの計8回出場しておられます。

1958年、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』で声優を務めた。その後、女優業に進出し、1958年、『12月のあいつ』で芸術祭賞、1959年、『まり子自叙伝』でテアトロン賞を受賞されます。

1960年代頃芥川賞作家・吉行淳之介氏と交際され、彼の死1994年まで事実婚(内縁の妻)(都内の互いの自宅で同居)の関係であったことも有名です。

また、同じく作家室生犀星氏にも可愛がられていたそうです。

福祉事業家として


1968年、肢体不自由児(身体障害者)・孤児・拒食症(精神疾患者)などの救済・支援を行う日本初の民間(私立)社会福祉施設であるねむの木学園(入所者は10歳~70歳、職員数2人~最大180人)を1人だけで私財を投じ、様々な苦労の末に3年かけて設立されます。

この活動で日本のマザー・テレサと呼ばれているそうです。

これはミュージカルの役作りで、脳性まひの子どもがいる施設を訪問したことをきっかけにだったからだそうです。


静岡県浜岡町(現・御前崎市)に開かれた「ねむの木学園」では絵画や音楽、工芸などを教育に採り入れ、国内外で子どもたちの作品展を開催されます。



障害のある子どもたちが生まれ持つ豊かな感性を世に伝えられます。


この頃より、タレント活動は事実上引退状態となったそうです。


1973年、吉川英治文化賞を受賞されます。

1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞されています。

1976年から『まんが世界昔ばなし』の声優として名古屋章氏とともに出演されます。

1977年には『ねむの木の詩がきこえる』を製作されます。

1979年、ねむの木養護学校を設立されます。

1975年と1981年に実施された近畿放送(KBS京都)のテレビ番組『宮城まり子のチャリティーテレソン』を通して身体障害者の社会参加を訴えられます。
これらが評価され、1979年に総理大臣表彰されます。


なお、ねむの木学園設立時のエピソードは、1981年12月22日にテレビ朝日「ハウスこども劇場」枠において、『小さなラブレター まり子とねむの木の子供たち』としてアニメ化されたそうです。


2007年3月、日本経済新聞『私の履歴書』に自伝を執筆されます。

2011年1月、自宅で転倒し腰椎を骨折して入院されます。

2011年2月、ねむの木学園元職員と音楽家の朝比奈圭氏の2人が宮城まり子さんの銀行口座から現金約3100万円をだまし取ったとして、詐欺罪で逮捕されたそうです。

朝比奈氏らは起訴され、9月、東京地裁(裁判所)からそれぞれ懲役2年、懲役4年6月の有罪判決を受けたそうです。

ねむの木学園や宮城まり子の個人口座から計約5億円が引き出された(盗まれた)というそうです。

2012年2月16日、東京高裁は一審判決を破棄して罪を軽くし、朝比奈圭シに懲役4年の有罪判決を言い渡しねむの木学園元職員は実刑が確定したそうです。

2012年、宮城まり子と懇意の仲であると思われる美智子皇后の夫・平成天皇から、瑞宝小綬章(旧勲四等)を受章されています。

同年11月、銀座ヤマハホールでシャンソンを歌い、歌手活動を30年ぶりに再開されます。

2020年3月21日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去されます。

93歳没。生没同日だったそうです。

宮城まり子さんが亡くなれたあと、明仁天皇から叙従五位の位階(身分)を与えています。

 宮城まり子さんの歌

主な楽曲として以下の歌が知られています。


毒消しゃいらんかね
ガード下の靴みがき
夕刊小僧
さいざんす・マンボ (トニー谷とのデュエット)
ジャワの焼鳥売り
東京やんちゃ娘
恋は陽気にスイングで
手のひらを太陽に(NHK「みんなのうた」)
ウバ・ウバ・ウキャキャ
夢をみたの
私を呼ぶのは誰
めもわーる
ママ!ひみつだよ
天使がとおる
屑屋の歌
まり太郎の歌
ドレミの唄


宮城まり子さんが出られた紅白歌合戦は以下の通りです。



1954年(昭和29年)/第5回 毒消しゃいらんかね 岡本敦郎
1955年(昭和30年)/第6回 ガード下の靴みがき
1956年(昭和31年)/第7回 屑屋の歌 春日八郎
1957年(昭和32年)/第8回 納豆うりの唄 高田浩吉
1958年(昭和33年)/第9回 ジャワの焼鳥売り
1960年(昭和35年)/第11回 陽気な水兵さん 藤島桓夫
1961年(昭和36年)/第12回 まり太郎の歌 春日八郎
1962年(昭和37年)/第13回 ドレミの歌 守屋浩
このうち、第5回・第6回・第7回・第8回・第9回はラジオ中継による歌声が現存するそうです。
第6回と第9回は宮城の歌唱中の写真も現存するそうです。
第5回での宮城の歌声は、2004年にNHKラジオ第1の番組内で紹介されているそうです。


宮城まり子さんの出演映画

てんてん娘・二部作(1956年) - てんてん娘役
オンボロ人生(1958年) - マリ子役
弥次㐂夛道中記(1958年) - おまり役
太鼓たゝいて笛吹いて(1958年) - おけい役
白蛇伝 (1958年)- 白娘の声役、その他
グラマ島の誘惑(1959年) - 名護あい役
まり子自叙伝 花咲く星座(1959年) - 本田まり子役
黒い十人の女(1961年) - 三岸三輪子役
ちんじゃらじゃら物語(1962年) - 蝶子役
続・拝啓天皇陛下様(1964年)- 恵子役
アンデルセン童話 にんぎょ姫(1975年)- フリッツ役
はだしのゲン 涙の爆発(1977年) - 中岡君江役


また長くまんが世界昔ばなしで 声優とオープニング・エンディングテーマを担当されていました。



宮城まり子さんの著作

以下の著作があります。


著作
ともだち ねむの木 そして私
ねむの木のこどもたち
としみつ
ねむの木の詩

最後に 宮城まり子さんは様々な賞を受賞されています。



1989年:CD「ねむの木」および劇団「虹」により芸術祭賞
1991年:辻村教育賞、エイボン女性大賞
1992年:第1回ペスタロッチー教育賞(主催:広島大学大学院教育学研究科)
1993年:東京都文化賞
1994年:博報堂教育特別賞・文部大臣奨励賞
1996年:高木賞(主催:日本肢体不自由児協会)
2000年:第5回尾崎行雄咢堂賞、静岡県都市景観賞最優秀
栄典
2004年:東京都名誉都民
2012年:瑞宝小綬章


めぐめぐがすごいと思う宮城まり子さんのこと

1お母さんを亡くされたあと弟さんと入られた吉本興業で苦労され、兄弟二人で芸能界で成功されたこと

2そして個人的な経験から学校を創られ、そしてその学校を大きくされたこと。

3様々な困難がありながらも、自分の芸能の仕事と友人を大切にされ、自分のしたいことをされた人生を送られたこと。


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