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第28週 メディアで活躍する女性 若尾文子


はじめに


第28週のメディアで活躍される女性は女優の若尾文子さんです。

お生まれとデビューまで



若尾 文子(わかお あやこ)さんは1933年11月8日東京府東京市荒川区(現:東京都荒川区)に5人兄姉の末っ子としてお生れになりました。


第二次大戦中はお父さんの仕事の関係で宮城県仙台市に疎開されていたそうです。

仙台を舞台にした井上ひさし氏の自伝的作品『青葉繁れる』のヒロイン(若山ひろ子)のモデルとされているそうですが、若尾文子さん本人は否定しているそうです。

これは井上ひさし氏が若い頃憧れの若尾文子さんと結婚したいという目標を高校生の時に掲げられていたからと考えられます。



女学校時代のニックネームは石仏、これは読書ばかりして、ほとんど声を出してしゃべらなかったことから同級生につけられたそうです。


疎開中、仙台で観た長谷川一夫氏の舞台に感激し、舞台終演後、楽屋へ訪問し「私も女優になりたい」と長谷川氏に直訴されたそうです。

それが縁で帰京後、大映ニューフェイスへ応募し合格した、という逸話が有名だそうです。

しかし実際のところは仙台に疎開中、学校の帰りに友人と大通りを歩いていたら、仙台座という劇場の楽屋口に檻に入った小熊を見つけ、可愛いので駆け寄ると、劇場から三味線の音がして長谷川一夫氏と山田五十鈴さんが舞台から降りて楽屋口から裏に出てきたそうです。

長谷川一夫氏が親しげに声を掛けてくれたので、一種の子供なりのリップサービスだったのか「女優になりたいんです」と言ってしまったそうです。

すると「学校を卒業してからいらっしゃいね」と言われてその話はそこで終わったのだそうです。

仙台から東京に戻ったら、義兄が大映のニューフェイス募集を見て、彼女の写真を送ってしまい合格したのだそうです。

こうして文子さんは1951年に大映の第5期ニューフェイスとして映画界にはいられます。

映画界デビュー



1952年、急病で倒れた久我美子さんの代役として、小石栄一監督の『死の街を脱れて』で銀幕デビューされます。

翌1953年に映画『十代の性典』がヒット作となり、マスコミから性典女優と酷評されるも知名度は急上昇したそうです。

この出世作である『十代の性典』は当時、教育関係者や新聞・雑誌からかなりの批判を受けたため、長年インタビューなどでもそのことはタブー扱いされていたそうです。


それ以降も出演作を重ね人気女優としての地位を築かれます。

映画スター

同年の映画『祇園囃子』(1953年)では溝口健二監督に起用され、女優としての実力を発揮し、性典女優の蔑称(汚名)を返上し、熱演が高く評価されました。

1959年(昭和34年)3月2日から6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため、同3月1日、池広利夫氏(大映営業渉外部長)、山梨稔氏(新東宝専務)や芦川いづみさん(日活)、大川恵子さん(東映)、大空眞弓さん(新東宝)、小山明子さん(松竹)、司葉子さん(東宝)ら他の映画会社各社代表女優たちと共に大映代表女優としてドイツへ出発されたそうです。
同3月1日、ベルリン着。ベルリンでの宿泊先はヒルトン・ベルリン。3月3日、記者会見。3月4日、CCCスタジオ)訪問。
3月5日、ベルリンを出発しミュンヘンに到着。ミュンヘンでの宿泊先はケンピンスキー・ホテル・フィア・ヤーレスツァイテン(Hotel Vier Jahreszeiten)。3月7日、記者会見。3月9日、女優たちのサイン会が開かれた。3月10日、バヴァリア・スタジオ(Bavaria Film)見学をされたそうです。
同3月31日、池広利夫氏と共に1ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。当時はまだ海外渡航自由化の前で、大変貴重なヨーロッパ訪問となったそうです。

現地で上映された日本映画は『無法松の一生』(第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作品)、『楢山節考』(木下惠介監督版)、『白蛇伝』(アニメーション映画)などがあるそうです。

以降、可憐でありながら強烈な情念と内に秘めた激しい気性を表現する演技から、日本映画を代表する正統派美人女優の一人となられ、京マチ子さん、山本富士子さんと並ぶ大映の看板女優と謳われ、260本以上の映画に主演されました。

和服姿の艶やかな美貌から、未だに海外での人気が高いそうです。


 川島雄三氏と増村保造氏によって鍛え上げられた文子さんは、1960年代半ばに各映画賞を総なめにするなど、戦後日本映画を代表する女優となられます。日本の主演女優映画賞5冠を2度取られているそうです。



TVドラマでの活躍

1971年の大映倒産以降は映画を離れ、文子さんは『新・平家物語』など、テレビドラマで活躍されます。

また、『雪国』(川端康成原作)で舞台にも進出されます。

1988年の『武田信玄』では信玄の母親役とナレーションをこなし、「今宵はここまでに致しとうござりまする」が流行語大賞を受賞するなどして再び注目されます。

1963年にデザイナー西館宏幸氏と結婚しされましたが1969年に離婚されました。

1983年に黒川紀章氏と再婚されます。

黒川紀章氏との結婚は1976年にテレビ番組『すばらしき仲間』で対談したのがきっかけだそうです。

そのとき黒川氏は若尾に「君はバロックのような人だ」とその美貌をバロック美術に例えたそうです。

黒川氏は既に結婚しており、娘が20歳になるまで黒川氏の妻が離婚に応じなかったため、若尾との結婚まで7年がかかったそうです。


1983年に黒川紀章氏と再婚してからは、テレビドラマの出演はやや抑え気味になり、現在は舞台を中心に活躍しておられます。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になられます。

2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優2位となっているそうです。

2005年には行定勲監督たっての希望により、『春の雪』で久々の映画出演を果たされます。

2007年の第21回参議院議員通常選挙に、夫の黒川が党首である共生新党公認で比例区から出馬されましたが、落選されています。

また同年10月夫の黒川紀章氏が亡くなる2日前に、文子さんが「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね。」と問うと、「そんなこと、そんなこと、そんなこと(ない)! 本当に(君が)好きだったんだから」と黒川に言われたのがふたりだけの最後の会話になったという。このエピソードは黒川が死去した翌日、自宅マンションに詰め掛けた報道関係者に対してインターフォン越しに語ったものだそうです。


2016年にはご本人の自叙伝が出ています。


また昨年2020年には写真集が発売され「若尾文子映画祭」アンコール開催が行われ往年の作品が4Kで見ることが出来たそうです。



めぐめぐがすごいと思う若尾文子さんのこと

1女優となられて1作目の失敗から努力を重ねられ、大女優になられているということ

2最近の技術が発達した最新機器を通しても、その美しさがさらに輝くような本当に素晴らしい美貌をもっておられること。

3いつの時代もその素晴らしい演技と声で、日本と世界中のファンを虜にされていること。


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