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正解が用意された世界に慣れすぎていた

最近、ネットで色々な人の発信を見ていて感じることがあります。
それは、学校教育が合わなかった人やうまく溶け込めなかった人の方が、大人になると自分軸をもって力強く生きられているのではないかということです。

逆に言うと、学校教育に上手く適合できた人や、そこで評価される経験が多かった人は、後々他人軸に苦しんでいる傾向があるのではないか。

あらかじめ正解が用意された学校という空間の中で過ごすうちに、私たちは知らず知らずのうちに他人軸で生きるということを体に染み込ませているのではないか。
こんな疑念が湧いてきました。

そこで今回は、私のエピソードも交えながら、学校教育と他人軸について考えてみます。

順調そうに思えた子供時代

自慢みたいになりますが、よりクリアに考えるために謙遜せず書きますね。

私は小学生の頃、比較的勉強がよくできて、テストは大体いつも高得点でした。
運動も習字も得意で、賞をとって全校の前で表彰されることが多かったです。

やれば何でもそこそこできたし、褒められることも羨ましがられることもありました。

一方で性格はどちらかというと大人しくて、目立つのも怒られるのも嫌いで、先生の言うことは素直に聞いていました。
「いや先生それ違うでしょ。」と堂々と言えるだけの芯の強さも能力もありませんでした。

他人軸に慣れていった

テストでいい点を取ると親に褒めてもらえました。
友達から「頭いいね。」と言われることも嬉しかったです。

マラソン大会は大嫌いだったけど、結局はそこで上位をとりたくて必死に走りました。
上位を取ると、やっぱり周りから褒めてもらえました。

こうして私は気付かないうちに、点数や順位といった他人が決めた評価軸上で評価されることにどんどん慣れていったんだと思います。
そして、他人の評価軸以外の評価軸で自分について考えることをほとんどしないまま、中学生になり、高校生になりました。

他人軸で生きてきた報い

高校2年生になり、周り友達が1人、また1人と大学受験のための勉強を始めました。
でも、なりたい職業も将来の夢も行きたい大学も分からなかった私は、大学受験につまづいてしまいました。

なぜ受験するの?
大学進学って私の人生にとって必要なの?
そもそも生きるって何?

親の言うことも先生の言うことも信じられず、大学受験のための勉強も全くせず、毎日パソコンの前で「どうしたらいいのだろう...。」と考え込む日々でした。

でも、考えても考えても答えなんて出なかったんです。
なぜなら、今まで私は、あらかじめ大人が用意した正解に向かって努力することしかしてこなかったから

正解は自分の外にあるものだ。
という間違った考えが、いつのまにか自分でも気付かないうちに、自分の中に深く深く刷り込まれてしまっていました。

私は正解をネットの中に探しました。
本の中にも探しました。
海外へバックパッカーに行ってみたりもしました。
でも、見つからなかったんです。

ようやく見つかったのは、それから10年以上後のことでした。
その間、私はずっと他人軸でモヤモヤと生きていました。

他人の評価なんか気にせず堂々と生きている人に憧れながら、かといって自分軸で生きることもできず、どっちつかずで中途半端な生き方をずっとしていました。

学校は失敗を歓迎する場所であるべき

こうして見てくると、少なくとも私の人生においては、冒頭の仮説が成り立ちそうです。

つまり、あらかじめ正解が用意された学校という空間の中で過ごすうちに、私は知らず知らずのうちに他人軸で生きるということを体に染み込ませていた。

学校教育の中で優等生であればあるほど、与えられた評価軸の中で評価される経験を多く積むことになり、結果として他人軸が強くなっていくのです。

一方で、学校教育からはみ出てしまう人、合わない人、合わせられない人、そんな人は、学校があらかじめ用意した評価軸の上で評価されません。
そこで挫けてしまう人もいるけど、何くそ!と頑張って、自分の評価軸を持てた人が、今ネットなどで発信力をもって発信しているのかもしれません。

一つ言えることは、学校は子供が正解を求めたり、教員が正解を示したりする場所であってはいけないんじゃないか、ということです。
そうではなくて、正解を探求する場所、探求の過程で失敗することが大いに歓迎される場所になる必要があるのではないかと思います。

私と同じような子が生まれてほしくない。
自分の子供が私と同じようになってほしくない。
そういう思いがあります。

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