見出し画像

「自分をどんなふうに甘やかすか?」というはなし

最近はまったくお酒をのんでいない。

でもこのまえ、スーパーでお酒コーナーの横を通り過ぎたとき、ものすごくひさしぶりに「あ、ビール飲みたいな」と思った。

ただ、その日はとにかく頭がぼんやりしていて、睡眠の質が悪かったせいなのかなんなのかめちゃくちゃ眠いし身体は気怠いし、心の中は暗雲がたちこめており、なんかもう「ああーわたし、なにやってるんだろう」「わたしなんてなんの価値もないですしね」といった「無価値感」が心の中で大爆発!していた。

「いや、べつに飲んだっていいと思うよ?お酒くらい」と言うわたしと、「そんな、お酒なんて飲んでどうするの?なんの解決になるの?」とかよくわからないことを言っているもう一人のわたし(笑)、がせめぎあっていて、後者のわたしが、どーーうしても首を縦にふらない。

こんな罪悪感がある状態でお酒を買ってもねえ、、と思って、結局その日はお酒は買わずに、必要なものだけを買って帰ったのでした。

で。このときにわたし、気づいたんです。

ここで、お酒を買おうが買うまいが、その「お酒を買うこと」という行為って、ぜーんぜん!その日のわたしにとっての「甘やかし」にならないんだな、って。

「自分をどこまで甘やかすか?」というようなこと、わたし時々考えるのですが、なんていうかこれ「どこまで甘やかすか」とかの、度合の話じゃないんだな、って。自分をどこまで甘やかすか?っていう、その設問の立て方がもう違うんだな、って。

甘やかしって「具体的になにをどうする」とかそういう話じゃないんですよね。その甘やかしを「受け取れる状態になれるかどうか」が最重要なのであって。

もうね、根っこに罪悪感とか違和感がある時点で、自分を1ミリも甘やかせてなんてないんだな、と。この罪悪感をいかに解きほぐせるかがポイントなんだなあ。

前述のようにこの日は「わたしなにやってるんだろう」「わたしなんてなんの価値もないし」といった無価値感&罪悪感に苛まれていた。もうこの時点で、あらゆる自分への「甘やかし」(ご褒美、とか、ささやかな楽しみ、とか言い換えてもいいかも)を全部スルーしてドブに捨ててるのと同義なんですよね。受け取れる状態になってない。

そんなのあまりにももったいないよね、と。人生という長いスパンで考えたらなおのこと。

なんというか「人間、ご機嫌な状態でいられるにこしたことないな」と思った出来事でした。


なんかメンタルの調子わるいなあ、と、ここしばらく思っていたのだけれど、ちょっと危機を脱した感があるのでうれしい。

つくづく、こんなふうに好きなように文章を書くのは、いまのわたしにとって最高の「甘やかし」だな、と思う。

きのう書いた投稿の中で、

文章を書く習慣って、わたしにとってはある意味「映画とかで、崖から落ちそうな人を、ヒーロー的な主人公が必死で助ける」イメージに近い

ということを書いたのですが。

「おや...?もしかして、しばらく前に保留にした自分への問いかけのアンサー、これなんじゃないの?」と思ったりした。

「書くことでわたしは一体どうなりたいんだろう?」っていうことを、わたしはちょいちょい思いがちなんですが。もうこれがアンサーってことでいいんじゃないかな。

ようは「わたしはわたしを救うために、あるいは、わたしはわたしがどうしても忘れたくないことや書きとめておきたいことを形にするために書く」というのが基本であって。

で、さらに、それを読んでくれたひとのことも、ちょっと救うことができたらこんなに嬉しいことはないな、という。そんなかんじ。

わたしはおせっかいなので「人を助けたい」「苦しんでいる人がいたら、楽になってほしい」っていう気持ちがふだんから結構強め。でも人を助ける以前に、まずわたし自身に余裕がなかったら誰のことも助けられないのですよね。だからまず、わたしはわたしのことを助けたい。

その「わたしがわたしのことを助ける」手っ取り早い手段が、こんなふうに好きなように文章を書くことなのであって。

もちろん、いついかなるときも書くことが自分にとっての最良の手段になるとは限らないので、代替手段があったらいつでも別の方法に切り替えたいけれど。でも、いまのところ、こんなに手軽にそれが実現できる手段はほかにないんだよなあ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?