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新しい自分を受け入れること

最近の悩み。
昔のように元気が出なかったり、力やエネルギーが漲る感じがないこと。


適応障害と向き合っていることを初めて表に出したのは2ヶ月前。
建築士試験が終わってからいろんな友人に会って話すようになり、一番驚いたのは、「実は自分も同じ状況になって…」という人が沢山いたこと。
それが1人2人ならまだしも、直接会った人もSNSなどテキストでやりとりしていた人も含めると、実に8人。そのうち9割の人が仕事、1割の人が仕事とプライベートの両方が原因のようだった。
そして病院で受診した人は8割、(私からすると凄すぎて想像を絶するのだけど)受診せず耐えて乗り切った人が2割。

自分の場合は他の人に「様子がおかしいよ」と指摘してもらったことで異変に気づき、病院で受診するというアクションが取れたから良かった。
(もちろん病院に行けば治るものではないのだけど。窮地にいるときの一時的な救済措置として捉えている)
同じように苦しい思いをしているけどどうすればいいかわからない人が、自分のことを思い出して病院に行くきっかけになればいいなという思いで公表することにしたのだけど、公表したことによって、思いがけず似たような境遇になった人を多く知ることになった。


そんな彼ら・彼女らと話している中で共感することが多かったのが、冒頭に書いた最近の自分の悩み。

例えば仕事。半年前の自分みたいに、120%の集中力を持って作業をすることができない。
120%出し続けてしまっていたことが燃え尽きた原因の一つでもあると思うのでそれがいいと思うわけではないけど、仕事をしていてもどこか違和感を感じる。集中するぞ!と意気込んでも、身体がブレーキをかけてきて、その狭間でふわふわしている、というか。

日常でも、あれやりたいこれやりたい、と思うことは相変わらずあるのだけど、行動に移すまでの腰が重いことが増えた。
やりたいことを純粋に楽しむための体力と気力が足りていない。そして身体が無意識にそれを察知しているからなのか、やりたいことが頭に思い浮かんでもなかなか行動に移せない。

今の自分と適応障害になる前の自分とは、時間軸でも肉体的にも地続きではある。
28年間とまあまあ長い期間付き合ってきた"自分"の記憶がしっかり染み付いているからこそ、そのときと同じ自分のはずなのに違うということに理解が追いついていない。

完全に昔の自分に戻れている感じしないんだよね、ということを話すと、友人たちも同じことを感じていたようだった。


なんだかなあ、と思っていた矢先、サカナクションの山口さんが新山口駅の標識と一緒に上げていた投稿が目に止まった。

「病気の前に戻るのではなく新しくなります」

少し前にある方のセッションに行き対話させてもらったのだけど(これについては後日書いてみようと思っている)、そのときにも同じようなことを言われた。
これまでの28年の自分も大切だし、ありがとうと思うのはいいことだけど、その自分とは今日でお別れだよ、と。

だから山口さんのこの一言を見て、やっぱりそうなのか、と。
頭では理解できるのだけど、昔の自分にはもう戻れないことが寂しい、悲しいとも思ってしまう。
それと同時に、少し不安な気持ちが自分に芽生える。

何事にも好奇心を持って全力で走り続けられる自分が好きだった。
前向きに頑張れる自分が好きだった。
だからこうして何かに頑張れなくなってしまった自分に対して、どう向き合ってあげればいいのかがまだよくわからない。

少しずつ、本当に少しずつ、自分の機嫌の取り方や愛し方を理解しつつはあるのだけど、傷が完全に癒えることなんてなくて、時々思い出しては喉元が締め付けられる。
ここで違った道を選べば、とか、そういう後悔があるわけではないのだけど、ただ思い出して、喉がきゅっとする。

きっと地道に向き合っていくしかないんだろうなあ。
少しずつ新しくなる自分を受け入れて、いつかはこれで良かったんだねと、100%の自信で自分を肯定してあげられる日が来るといいなと思う最近なのでした。


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