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アザレア(Azalea)の物語

最終章 自分はいない。


生命のうた。


非二元に出会って、『自分の死』が『自己エネルギーの終わり』すなわち『探求の終わり』と理解できた。だが、理解は理解でしかなく、理解したからと言って終わるわけではない。だからこそ『エネルギー的』と表現されるのだろう。
さらに『因果関係はない』と、言われてしまえば、何かをやったから『終わり』がくるわけではない。
終わらない旅を、ひたすら続けている感覚。
どうにかしようとはするが、どうしていいのか分からないもどかしさと、行き詰まり感。どれほどぐるぐると、思考を繰り返したところで変わらない。それを嘲笑うかのように、何事もなく日常は淡々と過ぎ行く。ある時、ふっと気づく。全てがここで、ただ起きているということに。それは自分の考えとは関係なく、現れては消えさっていくその様が、ここにただ在るだけだと。抽象的な表現ではあるが、まるで花火のように、夜空に突然現れて、跡形もなく消えている、そんな不思議な感じ。この感覚は『今までもあった』と、考えが浮かぶ。そして、全てがここで起きていた。
味わおうとしなくても、味がする。
見ようとしなくても、見えている。
聞こうとしなくても、聞こえている。
匂おうとしなくても、匂っている。
感じようとしなくても、感じている。
やろうとしなくても、やっている。
考えようとしなくても、考えている。
言おうとしなくても、言っている。

それらには理由も意味もない。たたの現れに対して、認識と解釈が勝手に付き、自分だけの物語になっていることに理解が及んだ。そして、全てが無になった。果てしない無は、果てを創り出す。果てがないから、果てが分かる。
会いたいと願った彼はどこにもいなくて、会いたいと考えることがあっただけ。
探していた答えなど無くて、答えが欲しいがあっただけ。
幸せなどどこにも無くて、幸せになりたいがあっただけ。
自分などどこにもいなくて、自分がいる感覚があっただけ。
どこにも行けるところがなく、過去も未来も考えの中にあるだけ。癒すべきインナーチャイルドも引き寄せる何かも、どこにも無くてそれが起こっただけ。
これが理解なのか、探求のエネルギーの終わりなのか、今はどちらでもいい。それさえ重要ではなくなった。ここには抵抗が無い。
そして、特別などはどこにも無く、起こりの全てが『奇跡』そのものなのだと、どこからともなく湧いてくる。

いつの間にか、憂いを抱えた梅雨は明け、熱さを連れて夏がやって来た。命を唄う蝉の鳴き声と、茹だるような暑さに、今年の夏は予想も出来ないほど、とんでもなくステキな奇跡が待っている予感が、

ここで静かに、、、

ただ、、、

湧いている。

、、、、、、、、、、、、、、、、、おわり。

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