【日記】私を忘れた祖母が褒めてくれたこと

これはただの覚え書き。

 ここには知り合いもいないし、自慢も身バレも何もないから書くけれど、私には学歴だけはそこそこある。一度言ってみたかっただけだけど。
 いわゆる高学歴女子というやつ。これも一度自分で言ってみたかっただけ。馬鹿馬鹿しいとは思う。

 「社会に出たら学歴は関係ない」という言葉があるし、学歴と頭の良さが結び付くわけでもない。学歴は生まれた環境で決まるともいう。全部そう思う。でも、それ以上に、高い学歴を持った人に向けられる他人の視線は、その人の周囲の磁場を狂わせる。私もだいぶ狂わされてる。
 一概に私の自意識過剰だけとも言い切れないと思う。だってさ、例えば会社の先輩に同期とご飯呼ばれて、開口一番「で、東大生どっちだっけ?」とか言われてごらんよ。意識せざるを得ないじゃないか。

 そんなふうに向けられる、なんかよくわからないが強い視線に、釣り合うキャラクターや知性なんてそうそうない。そもそも知性なんてそんなぱっと見てわかるものじゃないことは、長い学生生活の間に出会ったたくさんの存在が教えてくれた。それでも視線は、内在化して私を突き刺し続ける。
 逆説的に、私にとって学歴は「それに対してわたしが全く釣り合ってないことを示す何か」になってしまった。

 以下、覚えておきたかったこと。

 父方の祖父母は、私に勉強ができるとわかると「頑張って東大行きなさいよ」と言った。その「東大」がただのシンボルに過ぎないことは、子供の頃の私にもうすうすわかっていた。
 本当に私が東大に合格したとき、祖父母は大喜びしてあちこちに言いふらしたのだという。その行為がちょっと嫌だった。端的に言えば、結局私は「東大に行った孫」という、彼らを飾るシンボルに過ぎないんじゃないか、と思えたのだ。

 祖父母は戦争と貧しさのために、どちらも上の学校に行きたいと望みながら果たせなかったと聞いた。彼らの無念、「自分たちはもっと上の学校でやれたはずだった」という復讐心?のようなものが、(私の知らないところで)私に託されていたのだろう、ということは想像がついた。でも、別にそのために東大行ったんじゃないんだけどな、という思いはあった。喜んでくれたことは嬉しかったし、ちょっと、いや正直かなり、鼻が高かった、けれど。

 そのうち父方の祖父母の家からは、忙しさにかまけて足が遠ざかった。自分でも薄情な孫だと思っていた。
 申し訳ないと思っていた。だけど、とてもいい学歴をプレゼントしたことで、最低限の責務は果たした気がしたのだ。いや、薄情者の私には、その程度のことしかできなかった、そしてそれだけは成し遂げたと、そんなふうに思っていた。
 それはつまり、何もできない私、学歴を通してしか見てもらえない、と思っていた私が、「学歴があればよかったでしょ」と拗ねていたようなもの、だったのかもしれない。正直、祖父母が少しだけ怖かった。

 去年、祖父が急に亡くなった。残された祖母は、認知症でもう私のことを覚えていなかった。説明すると孫だとわかるのだけど、数十秒後にはもうわからなくなっている。私が東大に行ったことも忘れていた。
 昨日、正月のあいさつで祖母に会った。もう祖父が亡くなったことさえすぐに忘れてしまう祖母と、何時間も喋っていた。本当に今更だけど、そうすべきだと思ったから。あと親の代は忙しそうで、祖母のお世話役は私しかいなかったから。

 基本的に話題はループしてたし、祖母は決まったことしか話さない。会話は半分くらいしか成立してなかった。
 突然その中で祖母は「人生は難しいよ」と言った。「本当に人生は難しい。お金だってたくさん貯めてたと思ってたのに、気づいたら全然無くなっている」
 「人生は、っていうのもあるけど、時代が、社会がって言うのもあるかもね。歳をとるのが難しい時代になってるんだと思う」私は答えた。祖母は急にはっきりと「そうそう、時代が、そう」と言った後、私を正面からまじまじと見据えて言った。「あなた、利口だね」と。

 祖母の意図はわからない。だけど、おばあちゃんは私を「あなた」とは呼ばない。私が誰だかわからないで話してたんだと思う。学歴のことだってわかってない。
 だから、祖母にとってその瞬間、私は確かに「利口」だったのだ。学歴なんかじゃなくて。そして、祖母にとっての「利口」は、本質的には学歴(及び、機会があれば得られたはずの学歴)のことじゃなかったのだ。
 正直私の受け答えのどの辺が利口だったのかわからないけど、でもその言葉は、私がいい大学に行ったことを褒めてくれたかつての言葉より何倍も何倍も、うれしかった。祖母にはもう知る由もないだろうけれど、私は祖母のいう「利口」さを、確かにこれまでの人生で、欠片なりとも手にしていた、ということがわかったから。


 後悔はたくさんある。祖父母が私をどう思っていたのかはもうわからない。やはりステータスにこだわる人たちではあったから、彼らにとって、私という孫を特徴づけるものの大きな一部に学歴があったのは間違いないと思う。でももっと話しておけばよかったと思う。今更ながらに、本当に申し訳なかったと思う。今泣いてももう始まらないけれど。

 だけど、祖母はその学歴の下にあった「利口さ」を、確かに見つけて褒めてくれたのだ、昨日。本当に大事なのはそれで、それが確かに、欠片なりとも私に存在すると、私を(結果的に)励ましてくれたのだ。思いがけなくも。

 ここから教訓めいた結論は引き出したくない。おばあちゃんに褒めてもらって、本当にうれしかった、そして後悔した、それだけの話。だけど、おばあちゃんのいう「利口さ」は意識しないと、まちがいなく溶けて消えていく。私はずっと利口な孫でいるためにがんばろうと思う。それで、祖父母がどこかで納得してくれるような、人の役に立つ人生を送りたいと思う。それで薄情さが帳消しになるわけじゃないけど。
 誰かのために生きる、というのは21世紀では時代遅れなのはわかってるけど、今そうしたいなら、きっとそうしたっていいはずだ。


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