深海日記 #3

 死ぬつもりで世界を眺めると、通過駅から見える雑居ビル街の看板が眩しく見える。本当に死ぬのなら愛おしくさえ思えるのだろうか。あのイトーヨーカドーに自分は二度と降り立つことがない、と思えば、イトーヨーカドーは途端に人々の優しい愛と暮らしに満ちた聖域に思えるような気がする。昔アルバイトで通っていた松戸にあった、伊勢丹が潰れた時のことを思い出す。ついぞ入らなかった伊勢丹を、私はその頃少しだけ惜しんだ。

 本当に死ぬのなら、一日中ファイルを開いて他人の人生の計算などしていない。だから仕事をしている間、私はどうしても生きているとしか言いようがない。年末調整書類をめくる。不可知性が私に生きることを強いる。恐ろしいのは、いつ死ぬかわからないことではなく、いつまで生きるかわからないことだ。


 死にたいのは、一つには死こそがキラーコンテンツだからだ。誰もが死ぬから、誰でも死には興味を持つ。何者にもなれない私は死の魅力に縋るほかない。何者にもなれなくて、それで何が悪いのか。なんとなく、私はまだ、何者でもないまま孤独と生きるのは耐えられないだろうと思っている。何者かである、何者かになれるという自信がなければ深海の水圧は私を押しつぶす。死への望みさえ潰えたら、私は孤独でなくなる道を探すのだろうか。
 それはあまりにも醜いと思う。
 
 人間が人間を求める意志ほどべたべたとして気持ちの悪いものはない。それでも私は他者を求めてしまい、自分が嫌いになる。私を求める人には素知らぬ顔で何度も爪痕を残す。配慮が足りない、空気の読めない人のふりをして、何度も相手をなまくらの言葉で刺してきた。

 「昼、どこかで食べて来たんですか?同僚の人と?」という係の人の問いかけに、「いや、ただ急にここに帰りたくなくなって」と答えた昼休みのことを思い出している。あなたは私と話したいのかもしれないが、私は別段あなたと話そうとは思っていない。相手に恨みはないが、なぜかそれを伝えずにはいられない。

 それでも私は、「そういう人」としてうまく場に収まる術はなんとなく身に着けているし、この先もそういう人でしかいられないと思っている。私がわざとなまくらで刺していることも、そうする理由もわかっていて、それでも血まみれの笑顔で近づいてくる他者でもいない限り。
 しかしもしそんな人がいたら私はどうするだろう。愛するだろうか、いよいよ本当に刺し殺すだろうか。そういえば、布団蒸しという殺し方があるらしい。

 私は空気が読めないわけではないのだ、と今気づく。私は常に、空気を読めないふりをして他人を傷つけようとしてきただけかもしれない。二十年以上そうやって生きてきて、いつの間にか演技と地は溶け合い、固着してしまったけれど。本音ではむしろ空気を読めていると思っているから、本当に意固地になって意図せず他人を傷つけてしまったとき、かえって自分の愚かさにひどく傷つくのだ。

 だからこそ深海なのだ。深海でなくてはならないのだ。人と人の間には空気がある。深海には空気がない。したがって誰もいない。この日記を続けるつもりなら海のモチーフにこだわるのもたいがいにした方がいいと思うのだけれど、私は他者と話したい、傷つけたいと空しく願いながら、ただ一つきり、冷たい水の底を静かに滑っていく透明な長い魚の姿を思い浮かべる。

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