自分に「死ね」と思う時、その希死念慮についての一考察

 これは自分用のメモだが、人生ハードモードというほどでもないのに自己嫌悪で希死念慮の淵をうろうろするのが日課になっており、そんな自分にまた自己嫌悪する私のような面倒くさい人間の気休めになるとうれしいと思っている(同種のクソがいるぞ!)。希死念慮の原因が外部にある人の役には全く立たないと思うが。

 さて、今、

 とても死にたい。

 というのも、他の係の上司にだいぶマナーのなってない言動を取ってしまったから。席まで呼ばれてもその場から動かないし、報告も適当にしたりしている。周りの良識ある大人は「ああこいつやらかしてんな」と思っていることであろう。

 ただまあ言い分はある。なぜそんなことをしたのかというと、その係の仕事を押し付けられそうになった挙句、「そっちの仕事だろ!」と主張すると「責任感がない」と怒られたからである。思い返しても悔しいし腹が立つ。そもそも病休と称してわけのわからん休みを好き勝手取って周りに迷惑をかけているお前が責任感を語るな。死ね。

 この「死ね」なのである。

 だいたい、「死ね」と思うとき、人は比喩ではなく割と本気で死、とまではいかずとも、相手の存在またはアイデンティティの理不尽な消滅を願っていると思う。なぜそんなふうに思うかというと、私の場合、理不尽な言動によってこちらの理性が否定されたことに対する怒りである。

 理不尽な言動をする人間は、理不尽に存在を消されるべきである。

 その原理原則は、自分にも跳ね返る。確かに他の係の上司は大変理不尽であったかもしれない。しかしそれはそれ、これはこれであり、そのことで怒った私が業務に影響を及ぼしたら、それは私が、雇用契約に対して理不尽なのである。しかし私は怒りを抑えられないし、怒りを抑えて舐められたらどうしようもないと防衛的になっている。だから社会人のマナーから逸脱したレベルで怒りを表現する。そんな理性的でない人間は死んだほうが良い。

 そして冒頭の死にたい、になるわけである。

 この一連の流れには、21世紀にあるまじき命題がひとつ組み込まれている。「他者に対して理不尽な言動をする人間は、死ぬべきである」。なんという極論。なんというムラ社会論。この命題が自動的に成立する世界になっていたら、私は今日の言動のはるか以前、2歳児の時、道で声を掛けてきた社会人に「しゃべってないでちゃんと仕事してください」と言い放ったかどですでに死んでいるであろう。

 ならば、他人の理不尽を受け入れて互いを理解し合う、寛容の精神を持つべきなのだろうか。そして自分の理不尽も、ありのままの自分として受け入れ、その上でゆっくり改善を目指すべきなのだろうか。

 21世紀の「正しい」思想的にはそれが正解だ。しかし実践の力学において、それはだいたいの場合成立しえない。なぜか。寛容の精神を持とうと相手が思っていなければ、単にこっちが食い物にされるからである。理不尽な言動をする相手というのは、基本的にエゴイズムを指針に動くから。

 少しでも思想史をかじった人にはフルボッコにされそうだけど、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』の中に、神の恩寵から分かたれて「われ」(自我)を失った人々の描写が出てくる。自我を奪われると、ひとはかえって目的というものを何も持てなくなり、ただ生存することにのみ執着する。ヴェイユのことは背景知識が何もなくてわからないけれど、この描写だけは妙にずっと覚えていた。「一切の執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である」(『重力と恩寵』冨原眞弓訳、岩波文庫、2017年、59ページ)

 これは直観だけど、誰かから「死ね」と思われる人間は、だいたいこの地獄の中にいるのではないかと思う。「われ」、自分の意志、自我を殺された愛なき地獄のエゴゾンビ。そしてこの種のゾンビが、たぶん日本社会にはウヨウヨしている。

 他人の大体の理不尽さというのは、相手の自我が強すぎてこっちの理性を踏み荒らそうとするところから出てくる。その自我の強さというのは、ヴェイユ的な「おのれのほかに対象がない」執着から出てくる。ある種、自己保存と自己保身のための極度なエゴイズムである(こういうと陳腐なことになるが)。綺麗な理念とか社会通念で武装している場合もあるが、一皮むけば大体それらは、それに拠って自分の立場を守ろうとするエゴイズムだ。それを悟るからこそ、その相手の目的を絶って相手のエゴイズムの押し付けを終わらせたい、もう二度と同じことが起きないとわかって安心したい、そう願って人は「死ね」と罵るのだ。とたんにヴェイユの美しい透徹した世界がどこかに行った。

 さて、じゃあ、こうなった人間について、ヴェイユは何と言っているのだろう。

「〈われ〉が息絶えた人間にほどこす手立てはない。ほんとうになにも」(前出55p)

 やっぱりか。

 ヴェイユのように信仰を信じられない我々は、やはり安心するには手の施しようのない相手を殺すしかないのである。そして、度重なる理不尽によって自我を殺され、エゴイズムを貫くしかなくなった自分自身も。


 そこで、ちょっと待て、と思った。冒頭で私は「死にたい」と言っていなかったか?「死にたい」と思える、自己保存の能力に観念上でも異を唱えられる力がわずかに、わずかにでも残っているのなら、まだ可能性はあるのではないか? 思い出せ。なぜ死にたいのか。それは周囲を不快にするからである。周囲を不快にする人間は死んだほうが良い、というのは極論だが、その論理をこちらに跳ね返せる時点で、私は地獄像からさらに別の所に跳んでしまっているようだ。そこに救いはないのか。

 考えてみたが、これの結論は微妙であった。おそらく、「死にたい」の根っこはエゴイズムと一緒だと思われるためである。「死にたい」の根源は周囲につまはじきにされる恐怖、嫌われる恐怖であり、自己保存の欲求と突き詰めれば同種のものである。自己保存の欲求をつらぬけない、その恐怖にすら耐えられないのだ。

 要は「自我ゾンビ」を貫くエネルギーさえなくなり、同種のゾンビと殴り合ったあげくに「もうこの絵面汚い。動くのをやめたい」と力なく言っている死体が私である。書いてみると救いがねえな。

 神無きゾンビたちはどうすればよいのか。

 まず私は信仰について考えてみようと思った。ヴェイユは「われ」が完全に息絶えていない可能性についても述べている。この絵面汚い、という嫌悪は、「奇麗なもの」があるとわかる、正しく純粋なものがあると信じられる、その能力がまだ心に生きている証左ではないのか。ヴェイユはそれを恩寵と結びつけた(ようだけど難しくてわからない)。

 まあ、ただ、「信仰について考えたい」などと人に頼ると悪い新興宗教にさらわれそうだから、と、私は一人プロテスタンティズムを実践してみる。部屋にある新約聖書(親父の実家の本棚から借りてきた)を開いて、それを読んでみたのだ。開けたのはローマ人への手紙の部分。

 前後の文脈がわからない。イスラエル人とかローマ人とかユダヤ人とか出てくるが、どうにも寛容の精神もダイバーシティもないように思われる。ルターの理念は私の6畳間で早々に崩壊した。たぶん信仰とかってこういうものじゃないのだ。そして神の前には等しく神の子たる我々に、本質的なダイバーシティはないのだ。わかる。わかるよ。それくらいは。頭では。しかしまったく心に響かない。形から入れるものじゃないというのに、神無き世界に生まれ育った近代日本人において、いまさら信仰と向き合うことがどれほど困難なことであろうか。

 人間に戻る道は遠いようだ。なぜ戻りたいのか。戻る必要はあるのだろうか。もしかして、このエゴイズム・ゾンビのまま生きることこそが、人間に戻る道なのではないか?

 だって、人間に戻りたいというのも、よりよく生きたいという自己保存能力からしかでてこないものだ。ならば、もう何もかも忘れて、死にたさを抱えて生きるのが一番誠実なのではないだろうか。自己保存が不可能になる恐怖を抱えて、常に恐怖に脅かされて、それでも死にたさに逆らって生きている事実が、他の理不尽なゾンビたち、死にたささえ失った自己保存能力の権化の侵攻に対して、私たちが守り抜ける唯一の砦なのではないか?希死念慮だけが私たちを救ってくれるのではないか?

 矛盾に逢着したが、「限りなく死にたいと思いながら生きるしかない」という結論は、21世紀的にもだいぶ正しい感じがする。とりあえず今日はこの辺で落としておこう。

 私の同種の誰かが読んで笑ってくれますように。

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