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小旅行

きっと人にはひとりになるべき時があって、私は一人で知らない街を歩きながら、ようやく自分と生きている気がした。近頃の私は、私ではないみたいで、一連のあらゆる出来事がどうも現実ではない気がした。信じたくなかったとか、それほど大きな出来事も起こっていないけど。知らない街は、慣れるまでが楽しい。慣れるとまた寂しいだけ。高潔なひとり気分を数日、退屈で惨めなものをもう数日味わった。部外者でいることを選び続けることは、本当に臆病な選択だと思う。他人の存在を否定することと他人に否定されることはまた別物なのだ。ひとりでいることとひとりになることは違う。津軽海峡に着いて海風に当たりながら騒々しい音を響かせるキャリーケースを運んでいた瞬間、どこまでも一人でいける気がした。ひとりよがりは気持ちがいいのだ。ひとりでいることがやはり正義で、自然で、本当だと思えた。私は、もっと傷ついて、取り乱して、泣きながら喜んで舞い踊って、そうして、そうしないと、そうしないといけないんだと思った。ひとりになるとそれができる気がした。けれど、やはり私の悲しさも寂しさも陰湿で、決して清々しく凛とした、凍てつくような、そんな高潔なものではなかった。楽しさでスキップはしたけど、スキップは疲れるので長くは続かなかった。魂が揺さぶられるような、そんなものがあればいいと、津軽三味線の演奏者の手元を見ながら思った。こんな旅に酔っているような、スピリチュアルに感化されたようなことは本当に言いたくないが、一人で旅をしていると誰かとの出会いが本当に大切になる。名古屋でタクシードライバーを定年後、個人タクシーを10年ちょっとやっていて、それも辞めたというおじいさんに函館から青森に向かうフェリーで出会った。話しかけられたのは、私が良い席に座っていたのに昨晩の徹夜で爆睡していたことがきっかけだった。観光をしているわけじゃなく、フェリーにずっと乗っているらしい。朝のフェリーで出発してお昼に着くと立ち食い蕎麦屋に行き、またフェリーに乗って夜同じホテルに帰ってくる。函館青森間だけじゃなく、いろいろ乗っているらしい。上手い返しもできず、いいですね!旅人ですね!と言ったけど、何度も聞き返されて結局伝わらなかった。どうやら補聴器を付けているみたいで、多分最後まで私の返しは上手く伝わっていなかった。低くて、通る声だったら良かったのに、とどうにもならないけれどひどく反省した。「年金暮らしだもんでタクシーは高いからバスに乗る。どれだけ乗っても三百円。」と駅に向かうバスで言っていた。私は持っていた6×6のカメラで2枚だけ写真を撮らせてもらった。フェリー上の美しい光と太陽の熱、目の前にいる人物が確実に生きてきた長い月日の尊さに、胸がいっぱいになって、確認していないけど多分あまりうまく撮れていないと思う。あの綺麗な海面を何日も何日もひとりで見つめて、何を思っているのだろうと思った。陸にはもう未練はないということだろうか。この人の一生が、美しい思い出でいっぱいになりますようにと思った。こんなひとりよがりではない一人旅をいつかできるようになるだろうか。その為にはもっと長い年月が必要だろうことは、救いになるかもしれない。

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