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なにかの終焉

茶色の木の葉を踏みしめ、わざと音を立てて歩く。風が吹くので、少し顎を上げて息を吸い込み、ジーンズジャケットのポケットに手を突っ込みながらいつもの公園を散歩する。
遠くにいるスポーツをする少年たちや、犬の散歩をする人々、自転車を押して歩く親子やカップルを見ていると、光る粒が動きまわっているような気がして、人はこうも生きているだけで美しいはずなのにと思う。
公園の階段に座って、動けなくなる。次の行動を考えないまま、ただずっとそこに座っている、そんな時間がいつあっただろうか。私はひょっとすると、このまま立ち上がらなくてもいいのかもしれない。光の粒の人々が動いて、光が輪郭をぼやかしながらスローモーションのように動く様を見て、生きているだけで美しいと思えるこの気持ちのまま、永遠に生きていきたい。この見え方の世界を一生保つことができたら。そんなことを昔も思ったことがある気がするが、その度に見事に忘れてこうして新鮮な孤独に包まれるのである。

思えば、ここ数ヶ月は大変なことばかりだった。そんなこれまでの全てを否定されるような日があったが、仕事熱心なつもりもなかった私は、自分が一丁前に傷ついていることに驚いた。友人に愚痴は言っても、心のどこかで、私がそれほど傷つく正当性はないのではないかと思った。心を使っていなかったのに、どうして傷ついているのか分からなかった。傷つく方が正しい反応のような気がして、こう振る舞っているのだろうか。実は自分で思っているよりも心を使っていたのだろうか。真実は分からない/あるいはそもそもないのかもしれないが、これを機に(あぁ、なんだか全てが終わってしまったんだな)となったことは事実である。終焉はいつも予想外の形で現れる。終焉自体の予感はあっても、その形は常に、なぜか想像ができないものだ。どんな終焉にも、多少の感傷は付きまとう。

並行して、新しい人生の幕も上がろうとしている。過去ばかりに目を向けて、どうせ死ぬのに何をしても意味がないという思考から抜け出せずにいた私が、何か自分の未来のために(生きているだろうと決め込んで)能動的に活動するということは奇跡みたいなことかもしれなかった。去年の私が聞いたら、感動して泣くかもしれない。



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