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305号室レポート

変化には痛みが伴う。かつてやらないという選択を取った何かに負けを認めて、やろうと試みて、また立ち止まる。やり始めた時には思い出せなかった、やらなかった理由が詳細を帯びて生暖かい感覚で襲ってくる。何が本質なのか、今私はどこを要として見たら良いのか、そんなことを繰り返し考えている。
本質はどの角度からものを見るかによって変わるということも、その角度が正しかったのかは後になってからしか分からないということも、知っている。
そして、変化には痛みが伴うものだとそう言い聞かせる。


韓国ドラマをみて切なさで死にたくなる。私が知らない感情、私が手に入れることのない世界。それを思って切なくなっているのかもしれない。何かに心を動かされると死ぬほど悲しくなる、その後鬱になる。これって体力がないのかもしれない。恥じるほど感傷的な人間だと思う。


姉のことを思い出す。色々なことがあったから、時系列が曖昧だ。最後がいつだったのか、あの夏だったか冬だったか、あれが何年の季節だったのか分からない。少なくとも5年は経ったか。姉に会えなくなってから、思い出すことは大抵決まっている。一緒に国道沿いのスーパーでパックのレモンティーを買ってストローで飲みながら長い距離を歩いたこと。怒って箪笥の中から洋服を出されたこと。泣きながら「どうしてそんなに強いの」と言われたこと。写真を撮るのが上手と褒めてくれたこと。一緒にプリクラを撮った時のおどけた顔。いい記憶と、転換期の苦しい記憶。痩せたからだ。久しぶりに会った時はあまりに小さくて悲しかった。私は本当に、二度と姉に会うことがないかもしれない。今どんな髪型をしているだろうか、声も忘れてしまった、私がどんなことを考え日々生きているのかも知らない。そんなことは、おかしいと思ってしまう。ようやく会えたのが死んだ時なら、私は苦しくて生きることを諦めてしまう気がする。『ストーリ・オブ・マイライフ』を見て、あの頃の私たちが恋しいねと泣いた。このことを持ち出して自分が悲しむ理由にしないようにといつも心がけていると同時に、いつも会えないことがずっと悲しい。


人生は長いから、と言われた。


少し涼しくなったと思ったらまだ暑さが続くらしい。西日の強いこの部屋で、冷房に冷えた自分のサラサラした足を触りながら死ぬのが怖いと思った。


好きな人が欲しい。人格形成されてから人を好きになったことがない。次に私が好きになる人がいるとすればそれは奇跡だ。運命とかではなくって、私の人生に人を招き入れる余地ができるということが、涙が出るくらいすごい成長である。(これを成長と呼んでいいのか考えたけど、私個人においてはこれはものすごい成長だ。)誰かの不十分を受け入れるよりも、誰かの良いところを受け入れる方がずっと難しいことだと思う。


ため息をつくようにTwitterに助けてくださいと書きそうになる。何をとか何からとかそういう実在はなくって、これは本当にため息のようなものである。



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