見出し画像

一日の終りに

 とにかくコンベアを流れてくる菓子パンを見ていないといけないし、そうでなくとも工員たちは防護服みたいな装備で目元以外を完璧に覆っているから、仕事仲間の顔色なんて観察できない。それでも、いつもと違う、ということはきちんと感じられる。なにがどうと、はっきり言葉で説明することは難しいけれど、全体的にみんな穏やかというか、ガードが下がってる感じというか、仕事ぶりに狂いはないが、だらけてるような雰囲気だけが、ほんのり漂っていた。
 仕事時間のパターンにあわせてメロディの違う終業ベルの、自分の番の曲が鳴る。会釈だけのあいさつでコンベアを離れてロッカールームへ急ぐ。小麦やイーストの甘く、ちょっとしつこいような、甘酒にも似た匂いの染み込んだ服を脱ぐ。ロッカーは入職順の割り当てだから、同じ時間に仕事をあがった人たちが、ひとつところにまとまって着替えるわけではない。話しかけられる距離には誰もいなかった。ちょっと遠くの人をぼんやり眺めるだけだった。パンばかりみたあとで目にする、作業帽を脱いだ人の頭部はうるさすぎるというか、複雑すぎるというか、ごちゃごちゃしている。仕事を終えた人たちの表情はにこにこ晴れやかで、これから楽しみな予定でもあるのかもしれない。
 たとえばナンみたいに、あまり膨らませない生地でつくれば、ぶよぶよした肉みたいな質感のパンになるから、それを使ったら人間の肉体そっくりなパンもつくれるはず。逆にもちろん、食パンみたいに型にいれて焼けばぴっちりした形もつくれる。この世界中にある、どんなものでも、パンで形を再現できるはずだ。実際、キャラクターや動物をかたどったパンは多い。パンにできないものはない。あらゆるものが、パンになれる可能性を持っている。
 というようなことを考えながら、工場から、歩いて離れていく。帰り道のはじまり。駐輪場にいるたくさんの人たちの明るい雰囲気が遠くから伝わってくる。たいていの工員は自転車通勤なのだ。みんなでわいわいねぎらいあって、そして解散。それぞれの自転車が走り去った駐輪場は無人になり、さみしくなる。賑やかさから静けさへ。歩いて帰ると、その推移を遠くから味わえる。自転車の人には感じられない情緒だ。
 ずいぶん背の高くなったすすきっ原を抜けて、暗い緑道ではたまにジョガーとすれ違う。二十分ほど歩いてようやく、駅前の通りに出る。にこにこと買い物をし、あるいは接客をする人たちを横切って、駅の改札をくぐる。駅員さんも愛想がよい。人の少ない場所はいいな、人が多すぎるとしんどいもんな、と、新宿駅の駅員の、強くさばさばした接客っぷりを思い出す。いやことをされたわけじゃないけど、なんだか印象に残っていて、わりと頻繁に思い出す面影がいくつかある。
 電車がきて、乗り込んで、人はあまり乗っていない。車両のすみっこに座り、目を閉じて呼吸を数える。今日も疲れたんだな、と、いまさらながらに実感する。おなかのまんなかに、充実感と厭世観がないまぜになった、重くしぶとい、人肌とおなじあたたかさの塊が落ちていく。瞑想というのでもないが、意識的にゆっくりと行う呼吸に注意をむける。しばらくして目を開けると、まばらな人がみんなしあわせそうに見えた。落ち着いた気分でその様子を味わってから、目を閉じて深呼吸に没頭する。別路線との乗り換えのある、少し大きな駅にとまって、たくさんの人が乗り込んでくる気配を耳だけで聞く。さていったい乗客はどのくらい増えたんでしょうか! 答え合わせをするみたいに目を開けて、そこではっきり違和感を抱いた。空席の少ない電車のなか、立ってる人もちらほらいて、その誰もがみんな、にこにこしている。にこにこしすぎている。目に映るすべての人がほほえんでいる。
 人と話している人も、ひとり腕を組んで黙ってる人も、携帯の画面を見つめる人も、本のページをめくる人も、みんながみんな、目尻を細め、口角をあげている。すぐ目の前の座席の、買ってきた商品の箱に貼られたシールを爪の先で慎重に剥がす女性も、甘えてくる子猫を撫でるような目つきでほほえんでいる。その隣で腕を組む、同伴者らしき男性は、温泉にでもつかっているかのようなゆるんだ表情で目をつむっている。そのそばで携帯の画面を眺める青年も、恋人とじゃれているみたいなにやけ顔で、むこうの座席で新聞を眺める老人だって、それが競馬新聞ではなく、孫から送られてきた手紙であるかのような柔和な顔つきをしている。声をあげて大笑いしている人こそいないが、ちょっと異様なほど誰もが笑顔だ。いじわるな、あざけるような笑顔ではない。静かなのだ。というか、電車のなかってだいたいこんなもんだよねっていうレベルの静かさなんだけど、全員に表情がある光景から受け取る賑やかな印象とはあきらかにずれているから、へんに静かすぎる気がするらしい。
 電車は変わらず走り続ける。ガタンゴトンと音がして、みんな静かに、じっと、笑顔でいる。笑顔ではない人がいない。車窓にも、みんなの笑顔がうつっている。なにがそんなに笑うことがあるのか。笑われてる気がするわけじゃないので、被害妄想というと違うのだけど、へんな居心地のせいで、頼りない気持ちになる。
 次の駅について、おそるおそる電車を出る。立ち上がり、電車を出ていく自分に誰も見向きもしない。みんな変わらず笑っているし、黙っているし、話している人も笑っている。なにかのひょんな手違いで、別の世界にお邪魔してしまった気分だった。すみません、すぐ帰ります! と、心の中でそう念じながら駅のホームに降りて、改札を目指す道の途中、おそるおそる確認すると、歩いているすべての人が、やっぱりみんなほほえんでいる。
 ロータリーに止まるバスの運転手さんも、まるで今日、仕事を辞めるかのような、晴れやかな顔をしている。窓越しに見えるバスの乗客たちも、それがディズニーランドの乗り物であるみたいな様子だった。家までの道で見かけるすべての人も笑っている。歩くすべての人が、難病が全快したみたいな顔をしていて、人の表情をどうしても気にしてしまうモードに取り憑かれながら、もうこれ以上の笑顔を見たくない気持ちでもあった。
 少し息苦しくなってきた。内臓がひとまわり縮んだような寒さがあった。いつしか口で呼吸をしている。住民全員の笑顔から逃げだしたい心持ちで、最後のほうほとんど走るみたいにして家に帰り着いた。鍵を握る手も冷たく、わなないていた。
 玄関をぬけると、部屋よりも先に洗面所がある。そこには鏡がある。それを思うとこわかった。そこにうつる自分の顔の表情を確認したくなかった。どうしても鏡を見たくない。
 けれど気にしてしまったら最後だ。鏡の存在を意識したと同時に、視界の隅に鏡が、ちょっとだけでも登場しないものかと、意識はそうやって鏡を待ち構えはじめてしまう。そういう体勢が勝手にできあがってしまう。
 それでは、目を閉じるというのはどうだろう。たしかに、その選択肢は残っていた。目をぎゅっとつむって廊下を通り抜ければいい。そうすれば鏡を見ずにすむ。頭はそう考えた。でも心は、鏡に注意を払いたい。はらはらしながら、目を開けたまま部屋へと向かう。洗面所を通りすぎるとき、目の端はやはり鏡を確かめる。ところが壁に鏡はなかった。床が輝いていた。今朝、パン工場にむかうまでにはたしかにそこにかかっていた鏡は割れ、粉々に砕けていた。洗面所の床に破片が散乱していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?