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書籍紹介『障がい者だからって、稼ぎがないと思うなよ。』

『障がい者だからって、稼ぎがないと思うなよ。(姫路 まさのり)』という本の紹介です。

僕自身は今年36歳なので大学に入って手話サークルを通して福祉と出会って関わった期間が、もう人生の半分になります。

障がい児学童(今の放課後等デイサービス)や作業所(今の就労継続支援B型施設)でアルバイトをしていたこともあります。ガイドヘルパーをしていた利用者さんは、よく作業所への愚痴をこぼしていました。

この本にも出てくるヤマト運輸の小倉昌男さんのスワンベーカリーの取り組みは、大学授業での課題図書で読んだことがあります。

支援学校、特に盲学校では高等部に長らくいたので、進路先開拓や施設見学、現場実習での付き添いをたくさん経験しました。なので、多くの施設で賃金が平均1万円程度と高くないことも知っています。

でも成功例があるのも知っています。

その違いは何なのでしょうか?

そのヒントになるかもしれないものがこの本にはあります。予約の取れないフレンチレストラン「ほのぼの屋」、年収2億円に届いた奇跡のクッキー「がんばカンパニー」、福祉×芸術=アール・ブリュット(生の芸術)「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」、当事者として活動してきた山田さんと中村さんから始まる「AJU自立の家」など、それぞれの働き方や稼ぎ方、あるいは生き方が描かれています。

いくつか心に残っている部分を引用します。

…ほのぼの屋では、働く誰しもが、企業理念のように何度も反芻する言葉がある。

 2万円で仕事ぶりが変わる。
 5万円で生活が変わる。
 8万円で未来が変わる。
 10万円で働き方が変わる。

 それは、障がい者の給料が少ないことに対する、長年消えなかった違和感の正体を、仲間たちと共に追い求めた結果、手にした答えだった。

この給料の額が変われば障がい者とされる人たちが変わっていくことは、前述の小倉さんの本でも描かれていた。

「失業するのが夢かなあ。ほのぼの屋の閉店であり、支援者の卒業。それが、ミッションよ完了。障害のある人たちが、私たち支援者がいなくてと、当たり前に働き、暮らせるインクルーシブな社会が実現すれば、支援者は不要になります。残念ながら、その夢の到達にはまだまだ時間がかかりそうですね」

これは、ほのぼの屋の西澤さんの言葉です。ただ一緒にいるのではなく、それぞれが当たり前に暮らせる社会を目指すのなら、まだまだ何かを変えていかなければならないのでしょう。

「障がい者に機械作業なんかムリ、と決め付ける人もいるけど、時間かけて教えてあげればなんなくできますよ。今日忙しいから頼むよ! と肩をたたいてやれば、目に見えて張り切りますしね」
「わかること」をできるのではなく、「できること」をわかる事。そうすればいずれ、できることは「わかること」となり、仕事の幅が広がって行くはずである。西村は、「そうそう」と思い出し笑いをしながらこうも話してくれた。
「見学された皆さん、決まってこう聞かれますね。"どこに障がい者がいるのですか?""彼らは本当に障がい者なんですか?"って。その言葉を聞く度、やっぱり障がい者と健常者ってそんなに大差ないんだと再認識させられます」
 企業の立場から、業務の合理化・効率化と障がい者雇用は相反するものだと私見を述べる人も多い。しかし、適材適所という観点から見れば、そこまでの相違はないように感じる。仕事の能力や人間性は、障害とは切り離して講じるべきであり、ときに決めつけにさえ繋がる。

支援学校で働く僕は、この文章を読んで、自問自答します。「この子にはできない、ムリと決めつけていないだろうか。子どもたちが「できること」をわかるように関われているのだろうか、手や口を出しすぎていないだろうか」と。

 稲垣自身、どうにか一般企業に就職したが、社内にはバリアフリーは行き届いておらず、移動などで「お手伝い」をお願いする場面がどうしても出てきていた。「仕方がない」「手伝ってもらうのは有り難い」と思っても、それでも、毎日の事だけに負担に感じてしまう。そんな彼女の心をしめあげたのが、配慮という名の特別扱いだった。
「トイレ掃除をね、女子社員みんなで交代でやってたのに、知らず知らずのうちに、自分だけ免除されていたんです。コーヒーも、私だけ入れられないから、他の社員に入れてもらっていた。みんな、休みに旅行に出かけたら、はい、お土産って言って渡すでしょ? 私の場合は、いつも迷惑かけてすいません、がどうしても先に出てしまう。お歳暮、お中元の時期になったら、心付けって言ってしまう」

「簡単に言うと、できないって事が、ガンバではまず無いんです。段差は無いのが当然やし、扉も引き戸で開けられる。コーヒーも低い位置にあるから私が入れる、お手洗いも自分でできる。大掃除も、役割を決めて自分の手の届く範囲で一生懸命やる。当然、自分より不自由な人がいれば、サポートに回ることもある。一つ一つ小さい事ですが、気持ち的にはすごく楽になったんです」
「車いの人間がいるのが日常であり自然」という空間。それは、稲垣にとってら天馬空を行くとばかりに、なんの気兼ねもなく当たり前の毎日を過ごせる場所でもあった。

社会や環境のあり方・仕組みが「障がい」を作り出しているという「障がいの社会モデル」という言葉が浮かんできます。だからこそ、誰もが使いやすくわかりやすい環境を整えていく必要があるのでしょう。

充分な資金や仕事の確保もなくスタートしたため、日常的に使うフロッピーすら満足に買えない日々が続いた。しばらくして、ダイレクトメールの宛名書きや、アンケート集計などの仕事が舞い込むと、事業は軌道に乗り始める。
 一本立ちの目処が立った1990年には「わだちコンピュータハウス」と名称を変更する。身体障がい者の新しい就労モデルを描き続けた「わだち」は、1996年に売上1億円、平均工賃10万円を突破。重度の四肢マヒの人々を主力とする施設としては全国的にも異例の快挙だった。
 設立当初、社長を務めた山田昭義は、その在り方についてこう述べている。
「ここら障がい者が手作業する場ではない。障がい者は管理職になって健常者を使って仕事をする場所。頭脳はあなたの資源である」
「わだち」の成功例は、時としてITを使った就労支援と称揚され、ITだけで自立できるかのような幻想が独り歩きする事もある。実際には、単なる作業の繋ぎ合わせでは長続きせず、能力を社会に生かした評価としての給料とモチベーション、仲間同士のサポート、背伸びをしながら挑戦する姿勢を補うスタッフワークが無ければ成り立たない。その意味ではITは単なる道具でしかないのだ。

就労と聞いて、障がいのある人が役割を与えられて働くというステレオタイプ的な見方をしていないだろうか。居場所づくりのために、あるいは施しの気持ちで雇ってやっているなんて考えてしまっていないだろうか。

同僚としてお互いに補いながら働く、管理職として指示されるカタチもあるよねと、全盲の先輩に教わった盲学校時代や、いろいろバカなことも一緒にやったガイヘル時代を思い出します。

 当然、経営者にはビジネスの視点が必要となる。しかし、事業の発展ばかりに考えを奪われると、生産性の低い弱者が排除されかねない。「経営・事業発展」と「生活・就労支援」という、矛盾する両者を調整するコーディネーターの育成も必要だ。
 そして、そんな矛盾を乗り越えた先にこそ、福祉の転換点という未来があるのではないだろうか。

支援学校においても、就労を目指す風潮は強いし、それはできるできないの優劣につながる面があります。でも生産性という一面だけでいいのでしょうか。それが社会の中の息苦しさをつくっているのかもしれないなとも思います。

僕たちの社会は、今までの能力・効率主義を乗り越える段階にきているのかもしれません(なんだか大きな話になってきましたが…笑)。

そんなところは、澤田智洋さんのマイノリティデザインに通じる部分があるなと感じました。

詳しいノウハウが書いてある訳ではありません。

儲けて利益を出すことだけが全てではありません。

ただ、みんながこのままでは良くないなと思っている現状を破るためのヒントが散りばめられた本です。

ぜひご一読ください。



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。