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書籍紹介『だれか、ふつうを教えてくれ!』

『だれか、ふつうを教えてくれ!(倉本 智明)』という本の紹介です。

共生って難しい

視覚障がい者でもある、著者の倉本さんが小学校の四年か五年の頃のエピソードからこの本は始まります。それまではなんとか見えないながら自転車に乗って缶蹴りをして秘密基地をつくって友だちと遊んでいて障がいをそこまで感じていなかったのが、みんなが野球をするようになって守備も打撃もお手上げ状態になります。

今まで一緒に遊んでいた倉本さんがつまらなさそうにしているのを感じた友だちは、守備ではなるだけ球の飛んでこないライトを守り、打球が飛んでもセンターがカバーする、打撃は投手が通常の半分の距離から山なりのゆるい球を投げてバントで当てる(当たらないことも多いけどたまには出塁できる)、出塁後はチームメイトが「ダッシュ!」とか「戻れ!」とか声をかけるという変則ルールを採用します。

共生の例のようにも思えるこのエピソードですが、そんな簡単なものではありません。

…せっかくみんなが考えてくれたルールではあったんだけれど、実際にやってみると、これがかなりつまらないものだったんですよね。
 確かに、変則ルールの採用によって、ぼくはみんなのやる野球に参加することができるようになりました。それ自体はよろこばしいことだし、そのような配慮をごくあたりまえのこととして行ってくれる友だちをもてたことを、ぼくはいまでもうれしく思っています。
 けれど、そういった気持ちとは全く別の次元の話として、遊びのおもしろさ、ゲームに参加していることの充実感を味わうことができたかというと、残念ながらぼくにはできなかった。友だちの気持ちが本当にうれしかったけれど、おもしろくなかったんですよね。
…ゲームのおもしろさというのは、「失敗するかもしれない」という緊張感があってはじめて、生まれてくるものなんです。
 せっかくのアイディアではあったけれど、変則ルールのもとでは、ぼくにはそのような緊張感は要求されませんでした。プラスの面でもマイナスの面でも、僕はゲームのなりゆきにほとんど影響を及ぼさないわけです極端な言い方をするなら、いてもいなくても変わらないということになります。
 共生とは難しいものです。ただ障がい者と健常者が一緒にいてなにかをしていることイコール「共生」ではありません。そんな共生の難しさからこの本はスタートするのです。

共生や理解というのは言葉で言うほど簡単ではないようです。

ふつうってなんだ?

視覚障がいの方のホーム転落の話を聞いたことがありますか?視覚障がい者の3人に1人は転落したことがあるとも言われます。駅のホームは視覚障がいの方にとってみれば「手すりのない橋」を歩くようなものです。黄色い点字ブロックが敷かれたり、最近ではホームドアの設置が増えたりしていますが、この本で問いかけられているのは「なぜ最近までそれがなされなかったんだろうか」ということです。

あるいはエレベーターやスロープの設置などのバリアフリーもそうです。足の不自由な人や車椅子の人が「ふつう」の人と同じように移動できるためにという配慮なのですが、その裏には「自分の足で歩けるのがふつう」という無意識が隠れています。

『ニューロダイバーシティの教科書(村中 直人)』でも触れられていた、「翼が生えた人がスタンダードな世界」を想像してみてくださいの例えもありました(この例え話、誰が最初に思いついたんでしょうか)。

この世の中のシステムは多数派の「ふつう」とされる人が基準となって設計されています。だから「ふつう」や「当たり前」が変われば、障がいは障がいではなくなるかもしれないし、健常と言われる人が障がい者になることもありえます。そして、みなさんの「ふつう」は必ずしも絶対的なものではなく、それとは全く異なった「ふつう」もありえるのです。

障がいを知ることの難しさ

倉本さんは見えづらさが徐々に進行し、弱視から全盲と呼ばれるようになりました。視覚障がいと言われると全盲の方を、視覚障がいの文字と言えば点字を想像される方もいらっしゃるかもしれません。

見えにくさは人それぞれです。視力だけでなく、視野や立体視、色覚など多様な困難さがあり、100人いれば100通りの見え方があります。それに点字を読めない視覚障がい者の方が多いのです。

そして見え方が違うということは、「視覚障がい」というかたまりで見られる当事者同士も、お互いのことをよく知っているとは限らないということです。全盲の方の困難さと弱視の方の困難さはそれぞれ異なります。障がいの程度が軽いから困難ではないということはなく、軽度ゆえの困難さもあります。

もうひとつ、障がいについて学ぶことの弊害があります。

障がいを学ぶことで新たな知識を得ることができます。視覚障がいの見え方や発達障がいの特性などを学んだり、関わり方の例を学んだり、支援サービスのマニュアルを身につけたり、関わりの経験を重ねたり。でも、対面朗読サービスで倉本さんが「先を読んで」と言っても良かれと思って朗読をストップし、読めない漢字を辞書で調べるボランティアさんを例に出し、そんな人の「わかってる」を押し付けないでともこの本は語ります。

 問題は、「向き合うべきは誰なのか」ということなんですね。本で読んだり、授業で聞いたり、経験を積むなかから得られるものはもちろんたくさんあります。けれど、向き合うべきは、あくまで、他ならぬ目の前にいる「その人」なんです。教科書でも、先生の話でも、ボランティアのマニアルでも、過去の経験でもない。
 もし、あなたが障害者についてのなにがしかの知識をもっていたとしても、それはいったん、横っちょに置いたほうがいいかもしれません。もっている知識は参考程度にとどめておいて、目の前にいるその人のことばに耳を傾け、その人のふるまいをよく眺めてみることです。
 知識でもって現実を解釈するのではなく、現実と照らすなかで、知識に修正を加えていくことが大切です。そのためには、「自分はわかっていないんだ」ということをわかっている必要がある。でなければ、虚心に目の前の現実とは向かい向き合いませんから。

この話は、以前何かの本で読んだエピソードを思い出させます。ある視覚障がいのある学生が通う大学の視覚障がい者の心理という講義で、「視覚障がい者は目で見てすぐに確認できないから、常に整理整頓し、どこに何があるかを把握している」という説明に対し、その学生の友たちが溜まりかねて笑い出すという話です(おわかりの通り、その学生はとてもズボラで整理整頓が大の苦手なのです)。

僕たちは、●●人、血液型、男女などいろんなカテゴリーに分けてその固まりで理解しようとしますが、もちろんその中の全ての人に共通するわけではありません。

わかりあうのは簡単?難しい?

障がいの程度や実態は人それぞれです。そんな多様な障がいのある人と接したり、わかりあったりのは難しいのでしょうか?

難しいのかもしれませんし、簡単なのかもしれません。倉本さんは親友と遊びに行って別れた後に、改札内にある太い柱にぶつかったのをその親友に笑われたのに罵倒を投げ返したエピソードを通して、経験や言葉のやり取りから、お互いの間にどんなときにどんなことをすれば傷つき、傷つけられるかについての合意ができていた例を紹介します。

僕も視覚障がいスポーツをしていて、アイシェードをつけて見えない状態でする前衛の攻防を後で批評し合ったり、グランドソフトボールの全盲プレイヤーの守備中に暇すぎて気が抜けてしまうあるあるなんかを先輩方や生徒たちと語るときに、なにか難しさを感じることはありません。

そのことは多分、誰とでも同じなのでしょう。転勤してはじめて組んだ健常者の相担任の方には「わからないこと」が無数にあらますが、同じ時間を過ごし、失敗を繰り返しつつもひとつひとつ確かめることで関係を築けるかもしれません。まぁ無理かもしれませんが笑。

そしてわかりあうことは、集団の規模が大きくなればより難しく、複雑になります。時に自分を抑える必要も出てくると倉本さんは語ります。また相応のコストもかかりますし、その設備のためには運賃や税金としてみんなが負担しなければなりません。

 エレベーターの設置に限らず、目で見、耳で聞き、足で歩く人たちのからだを前提にできあがっているさまざまなしくみを、いろいろなからだをもった人たちがいることを踏まえたものへとつくりかえていくためには、たいていの場合、なにがしかのコストがかかることとなります。
 バリアフリーのための設備の設置や改築なら、それはお金の負担というかたちをとりますし、直接の人間関係であれば、時に自分を抑えて相手とのあいだに妥協点を模索することが求められます。文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも、「共生」は、決して「タダ」ではすすまない、ということです。
 共生が単なるお題目に終わるのか、現実のものとなるのか。それは、困っているさまをいま目の当たりにしているわけでもない現状で、なおかつ、友だちや家族といった自分にとって大切な人のためだけにではなく、会ったことのない誰かのためにも、想像力をはたらかせて積極的に負担を行える人たちがどのぐらいいるのか、そのことに大きく左右されるのではないかとぼくは考えます。

まとめ

表面的でキレイな覆いを取り外した世界の在り方の核心に近づくような倉本さんの飄々とした物言いがとても印象的でした。

当たり前に使ってしまう「ふつう」って、「共生」ってなんなのでしょう?そんなことをとても考えさせられる本でした。

僕にはモヤモヤっと説明できそうな何かが掴めそうな感じもするのですが、まだうまく言葉にはできません。ですが、ふつうや当たり前をふと考えて、掘り下げてみる、そんかことを多くの人がやってみることが必要なんじゃないかなと思います。そしてこの本はそんなふうにふと考えるきっかけになる本ですよ。



表紙の画像はAmazon.co.jpより引用しました。