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教育勅語(1890年)

1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布によって日本の国策の基本ができ、翌年の1890年(明治23年)10月30日に、教育の基本方針を示す明治天皇の勅語である「教育ニ関スル勅語(以下、教育勅語)」が発布されました。

教育勅語発布の背景としては、当時、国民道徳の方針が明確ではなく、徳育の混乱が起きていたことを憂いた天皇から「徳育の方向性をまとめるように」という命を受けて、首相の山縣有朋(やまがた ありとも)は文部大臣 芳川顕正(よしかわ あきまさ)に指示しました。芳川の指示を受け、当時法制局長官であった井上毅(いのうえ こわし)と元田永孚(もとだ ながざね)によって作成されたのが教育勅語です。

ちなみに、この教育勅語は、天皇による法的責任を回避するために、法律としてではなく勅語の形式を採用したと言われています。しかし、実際のところ、戦前の影響力で言うならば、大日本帝国憲法をも凌ぐとも言われています。

それは、日本国憲法が発布された1947年に衆議院と参議院の双方において、教育勅語の効果は失効しているという決議を出していることからも、その影響力を伺えます。

余談ですが、「教育ニ関スル勅語」とは、他の勅語との区別のために用いられる「通称」であり、勅語自体には名前は無いそうです。

教育勅語を作成した井上と元田には、実は因縁があります。それは、教育勅語発布の10年ほど前の話です。

明治天皇は1978年(明治11年)に行幸(天皇が地方を巡ること)をして、各地の教育実情を視察しました。その際の天皇の意見をまとめたのが元田であり、それが「教学聖旨」です。「教学聖旨」の内容としては、明治維新以来の欧化主義を批判して、儒教道徳を復活させ「仁義忠孝」を教学の根本に据えようとしたものです。

これに対して、当時内務卿であった伊藤博文は、井上に「教育議」を作成させました。これは、教学聖旨に反論し、西洋化の必然性を述べたものです。さらに、元田はこの動きに、「教育議附議」をもって批判を加えています。このように、バチバチにやりあっていたのが、井上と元田だったのですね。この両者の戦いは、結局保守派である元田の勝利となります。

実際、教学聖旨の方針を受けて、1880年に制定1年の自由主義的な「教育令」が改正されて、「改正教育令」の下では「修身」が筆頭教科となり、日本の教育が国家主義へと傾倒していく足がかりとなったのです。

教育勅語の試みは、それ以前に出された「軍人勅諭(1882年)」の成功にもあったと言われています。これは、当時、西南戦争や自由民権運動という動きの中で軍部にも動揺が広がっていき精神的支柱が無いことを憂いた当時陸軍卿の山縣有朋が西周(にし あまね)に指示して起草したものです。これにより軍隊の思想統制はなされました。その内容として有名なものは「義は山獄より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」があります。これは、天皇のためには命を投げ出して戦えという意味で解釈されていました。

教育勅語の謄本と御真影(明治天皇と皇后の写真)は、全国の約30000校に下賜(かし 身分の高い者が低い者に渡すこと)され、各学校ではそれらを治める奉安殿が設置されました。その管理法は明確に規定されており、当時そのほとんどが木造校舎だった学校においては、火災が発生すると、謄本と御真影が消失しないようにと、火の中に飛び込んで焼死してしまう校長などもいたとされています(『教育勅語と御真影』 小野雅章 講談社現代新書)。こうして、謄本と御真影は、各種学校儀式でも重用されるようになり、国家主義的イデオロギーが、学校教育を通じて国民に浸透していくことになるのです。