教育社会学から見える教員集団の同質性
この節では、教員集団の同質性について考えてみたいと思います。学校教育における教育関係では教師の存在が重要であると述べました。その重要なファクターである教師が同質的であるとしたら、その教育内容も同質性を帯びてくることは必然と言えるでしょう。
さて、教師は同質的と言えるのでしょうか。これは、どういう側面から教員集団を捉えるかによると思います。一人一人の教師を眺めてみれば、その個性も特徴も大きく異なることがわかります。強烈なリーダーシップで学級集団を組織していこうとする教師もいれば、言葉を少なめにして、なるべく子供たちに考えさせて、子供たちの主体性を育みたいとする教師もいるでしょう。このように教師というのは一人一人大きく異なった多様な存在です。
一方で、もう少し抽象度を高めて「社会的属性」で見てみると、そこには同質性が見えてくるのです。このように、教師一人一人の個別具体的な話を「ミクロ(微視)」的な視点だとすると、教員集団のような視点を「マクロ(巨視)」的な視点と言います。
教育社会学という学問があります。これは社会学から生まれた学問ですが、教育をマクロ的な視点で捉えてみようという学問です。そういう視点で教育を眺めることで、個別具体的な教員集団を見ていては気がつけなかったような視点に気づくことができるのです(これは社会学一般に言えますね)。
学歴で分断される社会
今の世代はある視点で見ると「6:4に分断されている」と言えます。それは「大卒」か「非大卒」という分断線です。つまり、子供たちの約半数は「大学や短大へ進学」し、もう約半数は「専門学校や高卒」で社会へ出るということです(専門学校は大卒に含めていません。それは専門学校が就職に近いということや、専門学校のほとんどが民間経営であり学校というよりも職業訓練というニュアンスが強いからという考え方からです)。
学歴社会という言葉自体は、少し古く感じる人も多いかもしれません。生き方の多様性が叫ばれる現代社会ですので、昔と違って大卒だからといって良い就職先が保障されているとは限らないですし、高卒でも起業して大金持ちというエピソードも山のようにあるでしょう。しかし、ここでは、そのような個別具体的な、つまりミクロな話は傍に置いておいて、マクロな視点で考えてみましょう。
例えば、可視化しやすい指標として「年収」があります。
ここでは、以下のサイトの情報を元に「大卒・非大卒」の「年収」を比べてみましょう。
また、「生涯賃金」で比べてみると、その差は歴然です。
人生の価値を「お金で比べる」というのは野暮なことであることは承知の上ですが、資本主義社会であれば、お金の多寡が生活の質に直結することもまた自明のことです。
学歴という「属性」と関係なく、満遍なく「年収」が分布しているのであれば、それはここで問題にしなくてもいいのですが、今回は学歴という「属性」と「年収」は相関があります。そして、繰り返しますが、学校の先生のほとんどが「大卒」側の人間なのです。
一般的な感覚で言えば、大卒の方が就職の選択肢は数多く保障されているでしょう。今や、95%以上の男女が高校へ入学しています(2020年度 内閣府調査)。そうなると「高卒」というのは採用における「選抜の基準」として機能しにくいことを意味しています。つまり、世代における半数には就職の選択肢が少ないという状態なのです。そしてそれはそのまま収入や待遇の格差として現れてきます。完全なる学歴社会では無いとしても、まだまだ学歴によって「豊かさ」というのは規定されている側面があるのです。