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ヘーゲル(弁証法)


近代哲学を完成させたヘーゲル


 今回は、ヘーゲル(1770〜1831)です。ヘーゲルはドイツの哲学者であり、その思想はあのマルクスにも影響を与えたと言われています。

 今回扱うのは、ヘーゲルの哲学的思考法である「弁証法」です。これは、すべての物事を「運動」として考える理論のことです。では、それはどんな運動なのでしょうか。

弁証法とは

まずは、一つの「正(テーゼ)」を立てます(ちなみに、これを命題と呼びます)。ここでは「彼は大人である」という命題にしましょう。次に「正(テーゼ)」の対立命題である「反(アンチテーゼ)」を作ります。ここでは「彼は子どもである」とします。すると、「正(テーゼ)」と「反(アンチテーゼ)」は矛盾してしまいます。そこで、この二つの命題を高いレベルで統一する命題を作らないといけなくなります。そのように高いレベルで統一することを「止揚(アウフヘーベン)」と呼びます。「止揚(アウフヘーベン)」とは「否定する」と「保存する」と「高める」いう意味があります。つまり、「彼は大人である」と「彼は子どもである」の両方の意味を「否定しつつ」、「保存して」、「高める」命題を作らないといけなくなります。その命題を「合(ジンテーゼ)」と呼び、ここでは「彼は青年である」という命題にしたいと思います。確かに、「青年」という語には「大人」も「子ども」も「否定」されているにも関わらず、「青年」という語には「大人の側面」も「子どもの側面」も「保存」されていると言えます。だから、二つの命題よりも「高まっている」とも言えますね。

 このように命題を戦わせつつ、より高次の命題を生み出していく運動性をすべてのことに当てはめようとしたのがヘーゲルの弁証法という思考法です。ヘーゲルはこれを歴史にも適用しました。つまり、歴史というのは弁証法的な運動を経て「より良く」なっていくということです(これについてはレヴィ=ストロースの構造主義が批判します)。そして、その影響を受けたマルクスは共産主義という「資本主義が崩壊した後の未来」を描いたわけです。

弁証法を教育に適用

 弁証法を教育にも適用してみましょう。例えば、「学級は管理が必要」という「正(テーゼ)」を立てます。それに対して「学級は放任で良い」という「反(アンチテーゼ)」を立てましょう。この双方は矛盾しています。そこで、この二つの考えを「否定しつつ、保存し、高める」ような「合(ジンテーゼ)」を立てるために、「止揚(アウフヘーベン)」していきましょう。

 まず、学級は子どもの集団であるから、「放任で良い」だけだと「個人が衝突」してしまいます。そして、それは強者が生き残り、弱者が虐げられるような空間になるでしょう。「万人の万人に対する闘争」とはイングランドの哲学者であるトマス・ホッブスの言葉です。ホッブスはそこから「国家」の必要性を述べたわけです。「リヴァイアサン」という聖書の怪物の例を出した話は有名です。
 管理教育を目指した学級担任の「管理能力が低下」した状態の学級において「いじめ」が頻発するのが良い例ですね。大人が管理という側面を出さないと、子どもたちの集団は「荒れて」しまうことが往々にしてあります。

 一方、「管理」をすれば良いのかというと、それはただ単純に「権威に服従」しているという状態なだけですので「子どもたちが育っている」とは言えません。さらに言えば、「先生のいないところで」悪さをするということもあり得るでしょう。なにしろ、管理教育は「子どもの成長」には寄与せず「権威に服従する」ことを強いているだけですので、「権威に見つからなければ」何も問題は無いのです。管理教育を進める教師の学級で「いじめが潜在化する」というのもまた、学校の常識でもあります。

「管理」と「放任」を「止揚(アウフヘーベン)する」

 では、「管理が必要」も「放任で良い」も否定しつつ、保存し、かつ高めていくような命題とはなんでしょうか。それは「子どもを教育する」です。

 「教育する」という言葉には、子どもたちの「心への介入」が必ず含まれます。人が他人に何かを教えるということは、すべてそういう側面を含みます。そして、この「心への介入」が全面に押し出されてしまうのが「管理教育」ですね。つまり、子どもたちに「教師が思うように行動しろ」ということを強いることです。これは、繰り返しますが、子どもたちに「権威に服従しろ」ということを伝えているだけですので、害悪であることは間違いありません。

 一方、放任には、「子どもの主体性を育む」という側面がありますが、それは「介入をしない」ということを含意しますので、これも「教育」ではありません。放任は「無法状態」を意味し、それは弱者に厳しい環境となります。
 宿泊行事などの班決めを「子どもの主体性」に任せて「放任」した結果、取り返しのつかない大惨事になる事例を思い浮かべてもらえればいいでしょう。子ども達が「選択の自由」を主張する時は、大体「強者の居心地が良い」状態へと落ち着くわけです。

 「教育する」とは、「管理」と同様に、子どもたちへの「心への介入」を前提とはしますが、「教師が決めた範囲の中で」子どもたちを「放任」させてみることで、子どもたちの主体性を促しつつ、失敗などの経験から試行錯誤させて主体的に考えてもらおうということを意味します。「管理」的な側面の弊害を把握して、その「心への介入」度合いに意識を払いつつ、子どもたちの主体性を伸ばすための「放任」という要素も忘れない。そのような絶妙な塩梅を、僕は「教育する」という語に託してみました。

ガート・ビースタによる教育の目的

ガート・ビースタ(1957〜)というオランダの教育学者は教育を「資格化」、「社会化」、「主体化」の3つの要素に分けています。「資格化」とは「知識・技能を高める」こと、「社会化」とは「社会の規範意識などを涵養すること」、「主体化」とは「子どもの主体性を高めること」です。そして、ビースタは、現在の学校教育への危惧として「資格化偏重」を挙げています。たしかに、「今、しっかり勉強をすれば、将来の就職の選択の幅が広がるよ」という「よくある言説」はこれを顕著に示しています。ビースタはさらに、これらの3つの要素は「相殺」されるとも述べています。つまり、「資格化偏重」の結果、子どもの「社会化」や「主体化」が損なわれるということです。

 ビースタの議論を受けて、改めて「教育する」とは何かを考えてみると、それは決して子どもたちの「知識・技能を高める」ことだけではないということです。むしろ、現代の学校教育が蔑ろにしてしまっている、子どもたちの「社会化」や「主体化」をどう扱っていくのか、ということにもっと向き合っていかないといけないということです。

 ヘーゲルの弁証法は「運動性」に着目しています。つまり、「留まってはいけない」ということです。「今よりもっと良い教育を」という教師の思いが、現状の命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)していくことを願います。