『ケーキの切れない非行少年たち』②
前作はこちらをご覧ください。
本記事は、話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』を批判的に考察することを目的としていますので、ご了承ください。
さて、今回は筆者の描く「犯罪者の異常性」について考察していきます。筆者は人を刺した少年を例に出して以下のように述べています。
これは、別の記事でも指摘したいと思っているのですが、筆者はこのように「犯罪者の異常性」を描くことが多いなと感じます(ここでは「ニヤニヤ」など)。犯罪者の異常性自体は「犯罪を犯す」という点からも、否定はできないのでしょうが、本書では「犯罪者=知的障害者や発達障害者」というカテゴリー分けを随所で採用しているので、「知的障害者や発達障害者」も「異常」なのではないかとミスリーディングさせる恐れがあります。
実際、上記引用の後にはASD(自閉スペクトラム症)を例に出して、以下のように述べています。
この一文を読んだ、ASDを持つ子の親はどのように感じるでしょうか。僕は支援級担任の経験もありますので、自分が過去に受け持ったASDを持った子どもたちを思い浮かべながら、悲しい気持ちになりました。
彼らに「独特のこだわり」があることは否定しません。手をヒラヒラさせたり、換気扇をずっと眺めたりすることもあります。しかし、だからと言って「人を殺してみる」というこだわり(それを「こだわり」というカテゴリーで呼んでもいいのだろうか。倫理的に気になる。)を例に出すのは、あまりにも無神経なのではないでしょうか。
さらに、ASDの話の後には、長崎・佐世保での女子高生による殺害事件を例に出します。つまり、ASDの文章の前には「人を刺した少年」、後には「殺害事件」を入れ込む文章構成になっているのです。これでは、まるでASDを持った人が「人を刺し」たり「人を殺したり」するような誤解を招きかねません。
本書を通して感じるのは、筆者の持つ「障害への忌避感」です。そして、それを「改善するための方法」としての、筆者考案の「コグトレ」の推奨です。しかし、障害を持った子どもたちを本当に支援したいと思うならば、彼らの持つ「特性」を「犯罪を犯す異常性」と結び付けずに、彼らを「障害者」でなく「一人の人間として」関わる方がよほど健全ではないでしょうか。