見出し画像

教師は「孤立」を恐れるな

教育危機が叫ばれて久しいです。
教育はこのままだと、どうなってしまうのでしょうか。
なんだかんだ言って、持ち堪えるような「強い制度」なのか。
はたまた、実は今が「限界ギリギリ」で、針の一差しで破裂してしまうのか。

こういう時には、生存戦略が必要になってきます。
あなたが教師として、これからも働くためには「周りと同じで安心」という安全地帯の外側を知る必要があるかもしれないという話をします。

僕の勤める自治体にも「GIGAスクール構想」による「GIGA端末」が導入されました。
管理職は躍起になって「使え」と、鼓舞し続けます。その言い分は「これだけお金をかけているのだから、使わないと勿体無い」だそうです。
ある人は、こう言います。「国の政策なのだから、使わないなら教師を辞めろ」と。

別に、僕はGIGA端末を全く使わせていないことはありません。というか、むしろ積極的に使わせていますよ。僕のクラスの子どもたちは、2年生ながらに「パワポ」でプレゼンテーションができるくらいには指導しています。

でも、そういう「表層的な話」をしたいわけじゃないんです。
もっと、根幹的な、今風の言葉で言えば「マインドセット」的な話をしたい。

GIGA端末を使うのが悪いわけじゃない。
あなたがそれらを教育実践として使う「動機」が知りたい。

それは「使え」と言われたからですか。
それは「支給された」からですか。

ここに僕の課題意識はあります。つまり、それは「あなたが決めたこと」ですか。

主体性というのは、僕の研究主題でもありますが、「教師の主体性の欠如」というのは、種々の教育問題の底流をなしているのではないかと、そう考えているのです。

だから、これはGIGAに限ったことではない。
教室の掲示物にしろ、宿題の量にしろ、授業進度にしろ、生徒指導にしろ。
学校には「足並みを揃えよう」という文化があります。

そうやって若手が「学校の経験知」を知っていくという側面はあるのでしょう。「同僚性の高さ」というのは、日本の学校文化における素晴らしい点です。海外はそうではないらしい。海外の教師たちは、もっと個別的で、「集団知」を育もうという意識は薄いのでしょう。「研究授業」は日本独自の文化であり、アメリカには「指導案がない」という話もあります。

でも、「足並みを揃える」が「目的化」してはいませんか。
そうなると、これは「美点」から「汚点」へと変貌してしまう。

「めあて」があると授業の理解度が上がることがある。
これは良い。
「めあて」を書かないことは良くないことだ。
これはダメ。

学校の先生のマインドセットが「周りから逸脱しないこと」に支配されてしまった時、その先生のクラスにいる「周りから逸脱している子」はどうしたらいいのでしょうか。

学級は今でも閉鎖的であり、学級王国の王様である「学級担任」の価値観は、支配的です。

だからこそ、教師には長らく「人格の高潔さ」が求められていたのでしょう。子どもたちへの影響が強すぎるから、ですね。

さあ、ここまでのことを、我が師、内田樹先生がわかりやすくおっしゃっています。それを引用しましょう。

今の日本を見ていると、「他の人と変わらないようにふるまっていれば安全」という生存戦略はもう通用しなくなりつつある。帰属している集団のサイズが大きいということは、その集団が正しい方向に進んでいるということを必ずしも意味しません。今の日本のような、地殻変動的な社会の変化が起きているときは、むしろ最大集団のほうが環境に適応できなくなっている可能性がある。マジョリティが「正しい方向」に進んでいたら、これほどの社会変動が起こるはずがありませんから。マジョリティが「行ってはいけない方向」に逸脱して行ったからこそ、制度がきしんで、システムのあちこちが綻びている。そうじゃないかと僕は思っています。マジョリティが危ない方向に向かっているとき、生き延びるためには、みんなは「向こう」に行くけど、自分は「こっち」に行ったほうがいいような気がするという、おのれの直感に従うしかない。そういう危機に対する「センサー」を皆さんにはぜひ身につけていただきたいと思うんです。

『街場の文体論』 内田樹著 ミシマ社 p35、36

内田先生の例え話として「シマウマしか食べないライオン」の話があります。そんなライオンはすぐに絶滅してしまうでしょう。
教育が「未来をつくる営み」であり、未来が「予測不能」であるならば、我々ができることは、「シマウマ」ばかり食べないで、「これまで見たこともないもの」も食べてみませんか、と、そういう話なのでした。