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相対主義


2500年以上も前の人!

 次はプロタゴラスです。プロタゴラスは紀元前の人ですので、今から2500年以上も前の人になります。そんなに昔に哲学なんてあったのかと驚かれるかもしれませんが、哲学という営みは特別な用具などは必要がなく、思考さえあればできてしまうことを考えれば、これも不思議ではありません。昔は思考だけで「原子」の存在を捉えたデモクリトスという自然科学の哲学者もいたそうです。

相対主義とは

 さて、どうしてここでプロタゴラスの話をするのかと言いますと、彼は「相対主義者」として知られているからです。「相対主義」とは何でしょう。これは「絶対的に価値のある考えなんてない。どの考えにも良いところがある」ということです。なるほど、「狂信的」とか「妄信的」とかいった、「一つの絶対的真理を信じる」ような態度と比べれば、相対主義の態度は幾分節度があるように感じます。

 でも、これ、けっこう不思議だと思いませんか。プロタゴラスは今から2500年も前の人ですよ。そんなに昔の人たちは「神」とか「妖精」とか、そういうことを「妄信的」に信じているイメージではありませんでしたか。いえいえ、人類の哲学はすでに大昔に相対主義は通過していたのです。

 では、プロタゴラスの生きた時代を考えてみましょう。プロタゴラスが生きた古代ギリシャは政治家同士が民衆の前で直接議論をする場というのがありました。そしてそこで民衆を「より納得させた政治家」こそが「有力な政治家」となれる、そういう仕組みだったのです。つまり、そこで求められる力は「行政能力」とか「洗練された政治哲学」ではまったくなくて「相手の主張を論破できる力」であったのです。そして、そういうことならば「相対主義」は強いのです。なぜならば、相対主義は「価値の視点をズラす」ことで、「黒を白に」変えることができるからです。では、その例を教育の事例で考えてみましょう。

相対主義の実践

 「子どもたちは厳しく育てたほうがいい」という主張を相対主義的な議論で展開してみましょう。

A:「いやいや、厳しく育てたら子どもたちは権威に従順になるだけだ」
B:「結局、子どもたちは社会に出たら、ある程度は権威に従順にならなければ、社会の秩序が無くなってしまう」
A:「権威に服従させるのではなくて、それぞれが倫理観を持っていれば、社会は無秩序にはならないとルソーも言っているぞ」
B:「そんな倫理観なんて作れるわけがないだろう。世界を見てみろ。倫理の違いでいくつも戦争が起きている。」
A:「未来への希望を育てるのが教育という営みだろう。」
B:「では、どうすればすべての子どもに適切な倫理観の育成ができるというのだ。そもそも適切な倫理観なんてものを誰が規定するのだ。」
A:「そうやって諦めることを教え続けた結果が、今の日本の衰退だとは思わないのか」
B:「く、なんだとー」

 とこの辺りで掴み合いの喧嘩になりそうですね。つまり、相対主義的に議論を転がせばいくらでも相手の矛盾を突くことができるわけです。しかし、それは見てもらった通り「合意の形成」には向きません。現在、議論相手を「論破」したり、「あなたの視野は狭いですね」と「冷笑したり」するような論客?がメディアを賑わしていることを思い浮かべてもらえれば、それが「生産的な議論」ではないことが理解できると思います。しかし、古代ギリシャではその力こそが政治家の必須の力であり、相対主義のカリスマであったプロタゴラスに教えを請う政治家は後を立たず、プロタゴラスの授業料は跳ね上がり、なんと一回の講義で軍艦一隻が買えたなどの逸話が残っています。

 実はここまでの古代ギリシャの話は、教育の世界にもそのまま適用できてしまうなと、僕は感じています。例えば、学校文化というものがあります。これには「絶対的な真理」などというものは一切ありません。たまたま過去の誰かが始めたような「なんとなく実践」がずっと続けられて、そこにいろいろな「意味づけ」や「価値づけ」がなされた結果、それが「真理」のような性格を帯びていることがあります。

便器を素手で洗う教育実践

 過去の勤務校では「6年生による奉仕活動」というものがありました。これは「卒業式の前日に6年生が学校の全てのトイレの便器を素手で洗う」というものでした。僕は、はじめてこの教育実践を聞いたときには「衛生的な問題」を感じずにはいられませんでしたが、僕以外の職員は、この実践の「教育的価値」を信じている様子で、さらには、この日はその学校の「卒業生」たちもやってきて、「学校・家庭・地域」が一緒になって不衛生な奉仕活動を行うのです。もはや、これに異議を唱えることなど誰ができるでしょうか。もちろん、子どもたちは嫌がります。しかし、それは毎年のことですので、先生方も「何が何でもやらせる」という「教育的情熱」から、子どもの異議申し立てにも一歩も引きません。結局、子どもたちの中には「泣きながらやらされる子」もいますが、それも毎年恒例だね、となってしまうのです。

 「教育には正解がない」とはよく言われることですが、それは教育には「視点を変えることで、何でも正解になる」という側面があることを言っているわけで、これはそのまま相対主義と重なるわけです。しかも、教育における議論では「真理の確かめ」が難しい以上、「議論者の立場」が最重要になります。例えば、「ベテラン職員」と「若手職員」の議論は、する前から結果がわかっています。ましてや「管理職」に「若手職員」や「中堅職員」が物を申すなんて「御法度」であると考える教職員はたくさんいます。

めがね旦那として匿名で発信するのも・・・

 少し脱線しますが、僕自身が「めがね旦那」という匿名で発信をしているのにも、ここと関連があります。僕の考えを気に食わないと感じるベテラン職員や管理職は、相対主義を用いていくらでも僕を「論破」することが可能です。そして、それは僕にも当然可能なわけですが、僕の「年齢的な」立場上、それは難しい。職場で孤立するのは嫌ですからね。出る杭は打たれることが危惧される以上、目立つような発信は「こっそり」とやるほうが、職場での安心感につながると考えています。

本当に教育には正解がないのだろうか

 しかし「教育には正解がない」という言説は本当に正しいのでしょうか。そんな言葉を盾にして、理不尽な教育実践で「子どもたちを傷つける」ことは認められるのでしょうか。跳び箱が跳べない子どもの放課後の時間を奪って強制的に練習させることは、果たして教育的なのでしょうか。作文が書けない子の休み時間を、教師の裁量だけで奪って、休み時間に作文を書かせてしまうことは、果たして「子どものため」なのでしょうか。「できないままだと可哀想」という教師の思い(真理)が、数多くの「できない子どもたち」を追い詰めてきたという事実から、「教育には正解がない」という言葉は目を背けさせてはいないでしょうか。

 そんな相対主義の考えに取り憑かれていた古代ギリシャに一人の男が現れます。彼は「哲学の祖」として、最も有名なソクラテスです。彼の哲学への姿勢からは、現代の教師も数多くのことが学べそうです。