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めがね旦那の鍵概念<余白>


余白は埋めるべき穴?

 西欧的価値観にとっては「余白は埋めるべき穴である」という話を聞いたことがあります。一方、日本的価値観で言えば、「余白はそれ自体に価値がある」でしょうか。水墨画にしても、墨で描かれた部分と同じくらい、「描かれていない余白」にエネルギーを感じることがありますし、俳句という文化は「いかに言葉を削ぎ落として本質だけを語るか」という「語られない言葉」という「余白」を大事にしている文化観がそのまま現れています。

 しかし、学校教育においての余白の捉え方はいささか西欧的であると言えます。例えば、図画工作科における絵画指導において、教師がよくする指導としては「この塗っていない部分を塗りなさい」ですね。この指導に含まれる教師の思いとしては「めんどくさがらずに、最後まで塗りなさい」ということなのでしょうけど、嫌々塗らされる子どもの立場に立てば「最後まで塗り切る」ことの価値はわからないままのことだって多いでしょうし、その作品に満足しているのは指示した教師だけだったという悲しい話はよくあることでしょう。

学校現場の多忙の犯人

 この「余白は埋めるべき穴」という思考法は、他にも様々な場面で見られます。先日、研修担当が翌月の行事予定表を見ながら「来月は行事が無いから研修でも入れようかな」と言っていました。ただでさえ忙しい学校現場にあって「我々をさらに忙しさへと駆り立てる」のは、まさかの同僚なのかと僕は肩を落としてしまいました。

 学校現場には「余白」がまったくありません。放課後には会議と研修が詰め込まれ、その合間に保護者対応の電話をして、その合間には子どもたちのノートやプリントの丸付けをして、それでも時間が余ったら教材研究をすることができます。そんな状態で、授業改善や働き方改革なんてできるわけがありません。忙しさは人を思考停止に追いやります。現状維持にエネルギーの過半が持っていかれるような働き方をしている人間が、子どもたちに何を教えることができるのでしょうか。

 そしてこの「余白は埋めるべき穴」という思考は、教師にかなりの程度内面化されていると言えます。その事例として授業を見てみましょう。

授業の余白

 授業計画を立てるということには、教師の主体性はかなり認められている部分があると感じます。実際、学校現場は忙しいので、教師がお互いの授業を点検することもほとんどありません。だから、隣の学級がどんな授業をしているのかさえ、実は我々はあまり知らないというのが現実です。だから、授業がもっと多様化すればいいのにと願っているのですが、ほとんどの教室の授業にはある傾向があると感じます。それは「課題が早く終わったらプリントをさせる」という傾向です。

 長期休暇にも関わらず、印刷機の前で学習プリントを刷り続けている同僚がいたので「それは、何のためのプリントですか」と聞いたら、「授業の余った時間で子ども達にさせるプリントです」と教えてもらいました。僕の感覚で言えば、「授業が早く終われば、あとは自由にさせる」でいいと思っています。その日に教えるべき内容は教えたのですから、計画としては問題がないはずです。しかし、そのような考え方をする教師は現場では少数派みたいです。ここにも「余白は埋めるべき穴」という思考が垣間見えます。さらに、その「子ども達にさせたプリント」をいつ丸付けするのかといえば、放課後などの時間になります。ということは、教師は「自分で自分の余白を埋めている」とも言えます。プリントなどさせずに自由にさせていれば、見るべきプリントも無かったはずです。自縄自縛とはまさにこのことなのです。

 さて、授業計画に話を戻します。お互いの授業を見る機会というのがあまり確保されていない学校現場において、同僚の授業を見ることができる機会というのは「研究授業」の場に限定されがちです。この授業には「指導案」というものが用意されており、同僚に授業を見てもらった上で、その授業の提案性や新規性などを検討するというのが、研究授業の目的です。

そ のような研究授業を見ていて、毎度感じることが「余白の無さ」です。45分間という授業時間にびっしりと詰め込まれた学習活動と指導計画。話し合い活動が設定されていてもそれはあらかじめ「5分間」と決められています。それを超えてしまうと、他の学習活動を圧縮しないといけないので、どれだけ盛り上がっていても、「5分間」で切り上げないといけません。まあ、そうは言っても、人情として盛り上がっている話し合いを切り上げることはなかなかできないもので、だから、多くの研究授業は45分間をオーバーしてしまうわけです。チャイムが鳴っているのに「さあ、では今日の授業の感想を書いてください」なんて指導を見ていると、延長戦をやらされている子どもたちが気の毒で仕方ありません。

 繰り返しますが、教師が自分以外の授業をしっかりと見ることができる場というのは「研究授業」に限定されがちです。そして、その研究授業の多くに「余白がない」のであれば、そういう授業を見て学ぶ教師たちの授業だって「余白が無くなる」のは当然です。

<余白>がない授業の問題点

 では、<余白>がない授業の問題点は一体どこにあるのでしょうか。それは、授業が「形式的」になるということです。例えるならば、それは「台本が決まっている演劇」のようなものでしょうか。セリフはあらかじめ決まっていて、多少のアドリブ要素はあるとしても、それは「話の本筋」を逸脱しない程度に限定されます。そのような「演劇授業」を授業だと思っている子どもたちは、次第に「監督である教師」の意図を無意識的に把握することにエネルギーが注がれることになります。「先生は、今、何を求めているのだろう」ということを「頭の良い子」ほど考えることができます。そうして、そういう子の「先生の意図に沿った発言」を聞いて、満足する教師。ここにフィードバックループが出来上がるわけです。つまり、「先生の台本による演劇授業」→「それを適切に演じる子ども」→「演技を認める教師」→「さらに台本に沿った演技に磨きをかける子ども」・・・(以下略)。こうして、その台本の存在さえ把握できない子どもたちは「理解力のない子ども」として疎外されていくわけです。まあ、これは少々苛烈な書き方ではあるのですが、そこまで的を外していないはずです。さらに、先ほどのフィードバックループに書き足すならば、「理解力のない子ども」に「演技の仕方を教える」という教師の動きを入れてもいいですね。

<余白>がある授業

 次に<余白>がある授業について考えてみましょう。これはもう明白です。<余白>には「台本がない」ので、必然的に「子どもとのコミュニケーション」が生まれるのです。子どもの反応を見ながら「話す内容」を決定するわけです。完全なるアドリブですね。でも、これに不安を感じる必要はありません。コミュニケーションというのは人間にとって自然な営みなのですから。例えば、あなたが友人と食事に行ったとします。その2時間程度の時間の「話す内容」を予め決めておくなんて「奇行」をする人がいるでしょうか。いたとしても、それはすぐに破綻しますよね。だって、コミュニケーションには「相手」がいるのですから。あなたの「台本」を相手が演じてくれるわけがありません。というか、仮に演じてくれたとして、その時間は「おもしろい」でしょうか。それはチャットGPTとの会話に似ています。初めは物珍しくて楽しいでしょうが、次第に飽きてしまいます。人間は(今のところは)生身の人間とによる「台本のないコミュニケーション」を楽しむようになっているのです。だから、<余白>のある授業というのは、別に突飛なことを言っているわけではありません。<余白>のない授業を「特殊なコミュニケーション(伝達)」として、<余白>のある授業を「一般的なコミュニケーション」にしよう、そういう提案なのです。


こんな本も書いてますので、もしよければ。