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蝶番としての道徳的価値

蝶番(ちょうつがい)を知っていますか。蝶番とは、ドアと壁を繋いでいる金具のことです。これがないとドアを開け閉めすることができません。とても大事な金具ですが、あまり目立ちません。今日は、そんな蝶番としての役割をもつ道徳的価値の話をしたいと思います。

蝶番というアイデアは20世紀最大の哲学者であるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインからいただきました。

数学的命題には、いわは公式に、反駁不可能のスタンプが押されている。すなわち、「異論はほかの命題に向けよ。これは君の異論の支えになる蝶番であり、動かすべからざるものである」と。

『確実性の問題 / 断片 ウィトゲンシュタイン全集9』黒田亘・菅豊彦訳 大修館書店 1975

「異論の支えになる蝶番」というのはどういうことでしょうか。それを近内悠太氏は「常識」と表現しています(『世界は贈与でできている』より)。つまり、我々は「道徳的価値」という「常識」を有しており、それを支えにしつつ、倫理的な問題に対して葛藤することができるのです。だから、この常識としての道徳的価値を有していない人には倫理的な葛藤は起こらないですし、そもそも倫理について語り合える土台をもっていないということになります。

「特別の教科 道徳」では、2学年ごとに指導内容が指定されています。これは児童の「発達段階」を考慮してのことでしょう。例えば、[善悪の判断,自律,自由と責任]では以下のように学年ごとの内容が定められています。

[第1学年及び第2学年]
よいことと悪いこととの区別をし,よいと思うことをすすんで行うこと。
[第3学年及び第4学年]
正しいと判断したことは,自信をもって行うこと。
[第5学年及び第6学年]
自由を大切にし,自律的に判断し,責任のある行動をすること。

学習指導要領 特別の教科 道徳 第2 内容

「善悪の判断、自律、自由と責任」というのは改めて考えると、難しい概念だと感じます。例えば、僕は現在2年生の学級担任ですが、彼ら彼女らにとっては「自分が善」であり「自分と敵対するものは悪」という認識を持っています。これを僕は典型的な「勧善懲悪イデオロギー」だと思いながら見ています。つまり、彼ら彼女らにとっては「善は疑いようもなく善」であり、「悪の立場」というのは全く理解できないわけです。だから、何か良くないできごとがあれば「正義の象徴」である教師に「自分が受けた被害」についてを詳細に述べるわけです。

例えば、彼ら彼女らは、おにごっこをしていたときに「強く叩かれた」ということの被害を申し出るわけですね。そして、加害児童に話を聞くと、こちらもこちらで「そんなに強く叩いたわけではないし、そもそもその前に強く叩いたのはあっちだ」と一歩も譲らないわけです。おそらく、真実は「その中間あたり」ということは聞いている僕としてもなんとなくわかるのですが、児童たちからすれば「自分は圧倒的な被害者である」という立場はなかなか譲れないわけです。

そもそも善と悪というのは絶対的なものではなく、相対的なものです。つまり、「立場によって異なる」ということです。

例えば、大人気漫画であるワンピースを例にすれば、どうみても「悪役」として描かれている「海軍」は、これ見よがしに背中に「正義」の2文字を背負っていますし、彼らを「正義」と見る民衆だって描かれています。一方、主人公であるルフィたちは「海賊」なので、当然「悪」ではありますし、彼ら自信もそれは認めていますが、その描かれ方に「悪」は感じにくいですね。しかし、海軍からすれば海賊はすべて「悪」なのです。

例えば、アニメ「アンパンマン」においては「バイキンマン」が「悪」として描かれています。彼は、作中で一般市民に対して、強奪、暴行と悪行の限りを尽くしています。だから、バイキンマンは「悪」で疑いがありません。しかし「ドキンちゃんの立場」に立ってみると、バイキンマンは「悪」ではなく、「仲間」ですね。バイキンマンとドキンちゃんの住処は、常に薄暗い孤島です。彼らは「正義の世界」から追い出されてしまった「はみ出し者」であり、強奪をしないと生きることができないという視点を導入すると、彼らを「悪」だと無条件に断罪することに葛藤が生じてくるような気がします(これが倫理ですね)。

しかし、このような「善悪は相対的である」という話は、そもそも論として「善悪の判断」というか、「善悪の認識の土台」というものを共有していないと話になりません。

ワンピースにおける「海軍」は「悪」である
バイキンマンはどう考えても「悪」だ。

と、善悪を「絶対的」だと思っていて、かつ「自分の善悪の判断に疑いを持たない」子どもとは、ねじれるような悩ましい倫理的な対話というのはできないのです。

これが、ウィトゲンシュタインの述べる「蝶番」です。そして、蝶番としての「道徳的価値」を、「まずは体得する」という段階があるという話です。実際、先ほどの指導要領も、高学年になるに従って、より複雑な概念へと内容が発展していきます(高学年で扱う、「自由と自立と責任」なんて、大人でも難しいですよね。)

ウィトゲンシュタインは、この蝶番を用いた卓抜な比喩を残しています。

われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。

同書

子どもたちが倫理的なドアを開けて、倫理的な思索を深めていくためには、蝶番としての「道徳的価値」が必要なのです。それは、この社会で共有されている「常識」です。常識を疑うためには、まずは社会的な常識を身につけておかなければならない。これが、実は倫理の第一歩目だったのです。