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白獅子のシモン、の話

ボヘミア王国フス戦争の研究をしていると、その資料のほとんどは貴族や聖職者たちの動向を記しているのですが、たまに貴族ではなく「市民」や「商人」の名前が出てくることがあります。

「白獅子のシモン」もその一人で、名前の由来は彼が購入した中古住宅に、ボヘミア王国の紋章である「白獅子」が描かれていたから、だといいます。

チェコ語では Šimon od Bílého lvaと表記し、このodというのは「◯◯に住む」とか、「◯◯邸の」といったニュアンスで、正式な家名ではなさそうです。

シモンの父は「フヴァーレニツの蝮」と呼ばれる男で、苗字が「ヘビ」を表す単語だったからそう呼ばれたそうです。ですので、シモンのもともとの苗字は「蝮」だった可能性があります。

シモンは縁あってプラハの有力者の娘と結婚しました。そのときに購入した邸宅が、新しい名前の由来になる白獅子の紋章付きの家なのでした。

妻が有力者の娘ということもあり、シモンは市政を運営する参事会の委員として、なかなかの発言力を持つようになっていたと推測できます。

当時のプラハ(1427年頃)では、市政はフス派が主流となっていましたが、そのフス派も一枚岩ではなく、いくつかの派閥に分かれていました。

その派閥の一つが、隣国ポーランドから派遣されてプラハにやってきたコリブット王子の一派で、シモンとは対立していました。
彼らは自身の勢力拡大のために、フス派と対立関係にあったカトリックと手を組み、プラハにカトリックの軍隊を招き入れようとする計画を立てていました。

しかしその計画は事前に反対派グループに知らされ、コリブット王子とそのシンパらは捕らえられたのち、プラハから追放されるのでした。
コリブット王子によるクーデターが事前に阻止されて一件落着かと思われましたが、コリブット派の貴族がプラハ郊外にまだ何名か残っており、それらが第二のクーデターを画策しているのでした。

その情報を得たのが、参事会委員のシモンでした。

コリブット派の中にスパイがいて、彼らの計画をシモンに横流ししていたのです。

コリブット派の貴族たちの襲撃ルートや日時、そしてその規模などがシモンに知らされました。

というか、知らせを受けたのは襲撃予定日の2日前という、超ギリギリのタイミングでした。

シモンはクーデター迎撃の作戦を速やかに考案し、信頼できる協力者にのみ伝えて準備にとりかかりました。参事会の中にも、まだ裏でコリブット派に内通している委員がいるかもしれなかったからです。

シモンが考案したのは「空城の計」です。
襲撃犯たちの目的はプラハを掠奪することではなく、コリブット王子の身柄を奪還して市政に復権させることでした。
なので、「コリブット王子はまだプラハの市庁舎に幽閉されている」という嘘の情報を流し、襲撃犯を市庁舎におびき寄せるという作戦を立てたのでした。

襲撃予定日の朝、シモンの指示により、市民には外出禁止令が出されました。
そして、市の門扉を全て開放し、市庁舎まで何の障害物もないようにしました。

やがて襲撃犯がプラハに押し寄せて来ました。
騎馬兵350との記録があります。そのリーダーは、かつてプラハの軍事顧問を務めていた貴族、ヒネク・コルドシュタイン。

シモンも顔見知りの貴族でした。
何なら、過去に外交使節団として、共に隣国まで旅をした仲間でもありました。
それがプラハ襲撃犯のリーダーとなり、シモンのいる市庁舎を攻撃しようとしているのです。

襲撃犯は市の城門をくぐり、まっすぐに市庁舎へと向かいました。
しかしすでに、シモンのめぐらした罠が発動していました。

襲撃犯が通り過ぎて行った道にはバリケードが敷かれ、彼らの退路を塞ぎます。
よって、襲撃犯らは市庁舎前の広場に閉じ込められる形になりました。

広場を囲む建物の二階には銃火器を持った市民兵が潜んでおり、合図とともに窓から一斉射撃をしたのです。

射撃から逃れようとする騎兵で広場はパニックになり、部隊は総崩れになりました。

ヒネク・コルドシュタインも逃げようとし、広場から裏道に入り込みます。
しかしそこで、思わぬ人物と出会います。
それは、数年前にヒネクが助けてやった泥棒のなにがしという男でした。

「だんな、あん時はどうも。ささ、こちらなら安全ですぜ」

と、逃亡に協力してくれるかに見えたその男は、ヒネクが油断したすきに短剣でヒネクを刺して殺してしまうのでした。

広場では襲撃犯の三分の一が死亡し、残りは捕まえられました。
しかし市民らは、その捕まえた襲撃犯も一人残らず殺してしまおとうという勢いでした。

そこへ登場したのが、のちにプラハ大司教になる男、ヤン・ロキツァナでした。

彼はこれ以上の流血は無意味だと、単身で市民を説得し、200名の襲撃犯の命を助けるのでした。

おそらく、それもシモンの手引きだったのでしょう。
シモンもロキツァナも、無益な殺生は避けたいという思想のグループでした。

しかし残念ながら、かつての同志であったヒネク・コルドシュタインは、恩知らずな泥棒によって殺害されてしまいましたが……。


というような記事を、調査の中で私は発見し、翻訳したわけです。
そしてつい先日、そのシモンの晩年にまつわるエピソードが記された資料をまた発見しました。

それは裁判所に保管された、シモンの遺言書です。

自分の死後、財産をどのように分配するかということが、細かく指示してありました。

「親戚の◯◯が大きな借金をしているようだから、私の遺産から返済に充てなさい」

「銀の食器とか服とかシーツなどの家財は、妹のマリーにあげなさい」

「私のコレクションの本たちは、ロキツァナ司教にあげれば有効活用してくれるだろう」

「余った遺産は孤児院に寄付しなさい、それらの采配もロキツァナ司教に任せるわいな」

などの事が書いてあり、晩年までロキツァナのことを信頼していたのが読み取れます。

そして、親戚や家族を思いやり、社会福祉にも心を砕いていた彼の優しい人格を感じることができます。


シモンについての資料は少ないのですが、しかしこれほどまでに彼の人間性を掘り下げることができたのはとても嬉しく、光栄なことです。

600年前とは言え、そこに生きていた人間に流れる「情」というのは、現在と変わらないものだったんだなぁ、とつくづく感じております。

この記事を書いている私の隣では、飼い猫のシロが喉を鳴らして毛繕いをしています。


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