見出し画像

ヒプノセラピーを検証する、の話


前回の記事では、前世退行催眠で見た景色の一部を描きました。

ざっくりとしたあらすじをまとめると、
15世紀のチェコでフス派とカトリック派が戦争をしている状況下、フス派の貴族アレシュ・リーズンブルクは兵を率いてカトリック派の拠点を攻撃した。
しかし部隊の連携がうまく取れず、というか一緒に出撃した貴族のドラ息子が勝手な行動をして戦死してしまい、アレシュの軍は撤退を余儀なくされた。

アレシュがフス派の拠点に戻ると、フス派幹部らに敗戦の原因を詰められた。
しかしアレシュは戦死したドラ息子とその父の名誉を守るべく、自分が臆病風に吹かれて逃げて来たという嘘の報告をし、自分を犠牲にした。


という話でした。
まだ続きがあるのですけど、それは「後編その②」で描きますのでお楽しみに。


今回の記事は、そのヒプノセラピーで見たビジョンが史実なのかどうかを検証してみたよ、という内容になります。


さて、先日は私の誕生日でした。
不運なことに腰を痛めてしまい、横になって一日中過ごすことになりました。

暇なのでチェコ語の史料の翻訳でもやるか、ということになり、かねてより調べてみたかった史料に目を通してみたのです。

それは2013年と2017年に書かれた、チェコの大学の論文です。それぞれ、フラデツ・クラーロヴェー大学とパルドビッツェ大学という、どちらも東ボヘミア地方の土地の名の大学です。

で、その二つの論文はどちらも同じ事象についての言及があって、それらをまとめると次のようになりました。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1420年、東ボヘミアの都市フラデツ・クラーロヴェーはもともとフス派の拠点だったが、カトリックのジギスムントに降伏していた。
しかしジギスムントがプラハに進軍した隙にフス派が挙兵し、奪還した。

その後ジギスムントが再びフラデツに攻め込んで来ようとしたが失敗に終わり、フラデツ地方はフス派が優勢になった。

その勢いに乗じて、フラデツ周辺のカトリック拠点を攻撃する作戦が立てられ、その指揮官にはアレシュ・リーズンブルクが任命された。

アレシュの軍はいくつかのカトリック拠点を攻略したが、オパトヴィツ修道院への攻撃は失敗した。

その戦いで「ペトレット」という名の貴族と、その部下300名が戦死し、アレシュは負傷兵とともに敗走してフラデツに帰還した。

そしてアレシュは敗戦の罪により裁判にかけられた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

私がヒプノセラピーで見た景色は、季節は秋か冬というイメージでした。

アレシュが出兵し、カトリックの修道院を攻撃したのが11月末から12月24日にかけてのことだと論文には書いてあります。
一致しますね。

戦死した「ペトレット」について、論文では「判明しているのは名前だけであるが、歴史書にわざわざ名前が残るぐらいだから、フラデツ地方の有力貴族の一人だったのだろう」と記されていました。

ヒプノセラピーで見た「ドラ息子」は、おそらくこの「ペトレット」だったのではないでしょうか。

また、敗戦の責任を問われるシーンも、まさか大学の論文に書かれているとは思いませんでした。

ただ、その裁判がどんな記録として残ったのかは、その論文からは分かりませんでした。
いつか一次史料を見てみたいものです。

まあ、おそらく「ペトレットが単独行動を起こした」とは書いてないでしょう。
歴史なんて、権力者を守るための嘘が重なってできているようなものです。

けど、だとしても、おおまかな流れは変えられはしません。

アレシュが出撃し、敗走して帰還し、裁判にかけられた、という流れが確認できただけでも充分な成果です。

これはすごいことですよ、という話でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?