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感情のまままに泣くことは「男らしさ」を手放してくれる

よく、泣いている。

人にやさしくされたとき。
相手に話を聞いてもらったとき。
読んでいた本の一節に心がふるえたとき。

涙を流すような男は情けないだろうか?
弱い?ダメ?みっともない?
実のところ僕自身がそう思っていた。
だから、ずっとずっと泣けなかった。

男だから。
泣くことを禁じていた。
と同時に失っていたのは感情だったと気づく。

それが、つらかった。

  *  *  *  

cotreeのオンラインカウンセリングを継続して利用している。
「男なのにカウンセリングなんて」と思う人もいるかもしれない。
というか、多いと思う。僕もそうだった。

「男なのに◯◯するなんて」その背景にあるのは、男なら強くあらねば、弱みを見せてはいけない、勝ちにこだわれ……。
そうなれたら万々歳だけれど、僕自身はその価値観にこだわればこだわるほど苦しくなるばかりで。

逆に、安堵したり、気持ちが安らいだりするのは、「男らしさ」にとらわれるあまりこれまで言えなかった気持ちや感情を話せたときだった。
気持ちや感情をちゃんと受け止めてくれる相手がいたときもそう。

そうしたときに、意思とは関係なく涙がぽろぽろとこぼれて、ちょっぴり恥かしさがありつつも、こういう瞬間がとても愛おしいと感じていたりする。
泣くことは「男らしさ」のとらわれから自分をゆるめてくれる大切な時間だと思う。

最近、じんわり泣いたのはこの記事。

ぼくはそれが恥ずかしかった。その感情はやがて怒りや嫌悪となって、胸の内を暴れまわった。どうして、ぼくの両親は“ふつう”じゃないんだろう。どうして、母は“ふつう”に喋れないんだろう。どうして、ぼくは“ふつう”じゃない家に生まれてしまったのだろう。
それは、最寄り駅に到着し、電車を降りた瞬間のことだった。母が立ち止まり、「ありがとうね」と手を動かした。ぼくは意味がわからず、「なにが?」と訊き返した。「電車のなかで、大勢の人たちが見ている前で、手話を使って話してくれて、本当にうれしかった」
子どもが親と会話をするなんて、当たり前のことだ。けれど、そんな些細なことに喜びを感じるくらい、ぼくは母を追い詰めていたのだ。「ありがとうね」の裏に隠されている「寂しかった」という感情。この日、ぼくは過去の自分がしてきたことを恥じた。いくら謝ったとしても足りない。

メッセージの背後にある感情。
自分もこれまでたくさん見落としてきたなあ……母ちゃんに対して、家族、友達、おつきあいしてた異性、会社の同僚、上司。
と思い馳せてたら、涙がにじんできてしまっていた。

あぁ、読めてよかったなあ。
少し前の自分ならなんとも感じなかったかもしれない。

  *  *  *

男なんだからと、泣くことを止めた。
たぶん、その日から僕のなかの感情は失われていったように思う。
かなしいだとか、苦しい、うれしいという感情が涙を刺激してしまうから。

でも今はよく、泣いている。
涙が流れてしまうのは、その背後にある感情に気づいて、自分の感情と触れあったときなのかなと思う。



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