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無関心のメカニズム/見たくない世界=見たくない自分

社会の問題を知るたびに「なんでこんなことがまかり通ってるんだよ!」とハラワタが煮えくり返ることがある。いじめ、自殺、虐待、DV、パワハラ、性暴力、障害、難病、依存症、精神疾患、在日、移民、差別、貧困、政治のこと、経済のこと、、、

けれど、その怒りや憤りの感情は一周回って戻ってきて、盛大に自分に突き刺さる。

あんたみたいな無関心な人がいっぱいいるからだよ

そう、自分だって無関心だった人間のひとり。なのに、それを忘れてブーメランになるとも気づかずに投げまくっていた。
返ってきた頃には鋭利な刃と化して、自分の心を深くえぐる。けれど、自分が投げたという自覚がないからその痛みがしばらく分からなくて。なんだかずっと違和感がある気がして、じわじわと感じてみて、ようやく気づかされる。
突き刺さっているのは自分自身への問いでもあった。

どうしてあなたは目の前に問題がありながら無関心でい続けられたの?

◆◆◆

僕は自分が暮らしているこの社会の問題や困りごとをなにひとつ知ろうとしてこなかった。無関心、無知、無視、そんな自分は日々を漫然とだらだら生きてきたんだろうと思い込んでいた。
思想家・武道家の内田樹さんは著書の中でこう指摘する。

無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。p10
 
ですから「私たちは何を知らないのか」という問いは、適切に究明されるならば、「私たちが必死になってそこから目を逸らそうとしているもの」を指示してくれるはずです。p11

人はひたむきに一生懸命に頑張って無関心になる。そして、そこには必死になって目を逸らしたいなにかがある。

僕の場合、社会の問題以前に、自分自身の嫌なところ、都合の悪いところ、つまり、自分自身の見たくないところから目を背け続けてきたと思う。それを隠すのに、ごまかすのに必死だったんだなって。
社会の問題と自分自身の嫌なところは僕にとって同期しているんだと思う。だから、自分自身の嫌なところから目を背けている間ずっと、社会のことも目に入らなかった。いや見えたとしても、否認、倒錯、欺瞞、正当化、合理化、、、ありとあらゆる心の機制を使って、逃げおおせてきたんだと今ではわかる。

◆◆◆

どうして僕は目の前に問題がありながら無関心でい続けられたんだろう。そう自分に問いかけたとき気づくのは、目を背けていた「見たくない世界」は「見たくない自分」を映しているから、なのかもしれない。
僕はそうだった。今だってそう。

無関心は自己の内面の抑圧や否定によって「見たくない自分」が生まれることから始まっているんじゃないかなという仮説を立ててみる。そうすると、じゃあどうして抑圧したり否定したりするんだろうね?なんて問いが新たに生まれて、、、まあ、それはこれから少しずつ少しずつ考えてみようかな〜と思う。

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