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記憶を探る人 ── 宮下保司先生 その1

タイトルは『カンデル神経科学』と『カンデル脳科学』,どっちがいいんだろう。そんなことを考えながら,東大のキャンパスを歩いていました。今から9年くらい前,『カンデル神経科学』初版の企画がスタートしたときのこと。日本語版監修の宮下保司先生にお会いするためです。もちろん、お名前は存じ上げておりましたが,お目にかかったことはありませんでした。

それまで私は,編集者・ライターとして生命科学のさまざまな分野とかかわってきましたが,神経科学の本格的な専門書の企画はこれが初めてでした。その当時,神経科学の用語は知らないものばかり。そもそも神経科学と脳科学に違いはあるんだろうか,などと悩みつつ,緊張しながら,当時,宮下先生がいらっしゃった東京大学医学部生理学第一講座の研究室に向かったことを覚えています。緊張し,とてもドキドキしていました。もし,気難しい方だったらどうしよう,粗相のないようにしなければいけないな。そんなことは無理だな私には,などと思いつつ,教授室の扉を開けました。

実際にお会いした宮下先生に,それは,無用の心配でした。教授室の座り心地のよいソファーに案内され,落ち着きのある木製の本棚に並んだ教科書・成書の数々を眺めながら,『カンデル神経科学』(原著)や学生の教育についてにこやかに語る宮下先生の言葉を聞き,私は安堵し,予定よりも長居をしてしまったくらいです。神経科学と脳科学の違いについては質問しそこねましたが,両者に本質的な違いがないことは,後日わかりました。何よりも引き込まれたのは,宮下先生が研究について語ってくれた話でした。編集者にすぎない筆者に対しても,脳科学研究の歴史や内容をエネルギッシュに真剣に説明してくれたのです──これだ,脳科学は面白いっと,私は興奮しました。それは,この本の企画は成功する,という予感がした瞬間でもありました。

宮下先生のエネルギーに圧倒された私は,編集部に戻って,先生の印象をうまく言葉で伝えることができませんでした。やっと出てきたのは,「SF映画に出てくる天才科学者みたいな人。ちょっと,マッドサイエンティスト的な雰囲気のある……」。今から思えば,大変失礼いたしました。研究について熱く語り,世俗を離れて(?)研究に没頭し,次々と成果を上げてきた様子がそんな言葉になってしまいました。

「マッドサイエンティスト」というのがいかに見当はずれだったかということは,その後,宮下研究室を訪問するたびに思ったものでした。非常に礼儀正しく,公平で,社会秩序を大切にし,自身の研究だけでなく,日本の神経科学コミュニティの発展に尽力されている先生の様子が垣間見られたからです。秘書さんが足を怪我されていたときは,それをかばって「僕がお茶入れよう」と,私にお茶を出してくれたこともありました。

研究と2人の師

宮下先生の代表的な研究を3つ紹介すると,こんな感じです。まず,記憶ニューロン,特に長期記憶ニューロンの発見(Nature 1988,1991)。次に,その記憶ニューロンを働かせる仕組みであるトップダウン信号の発見(Nature1999)。そして,トップダウン信号を出す源であって,自分自身の記憶に関するメタ認知の中枢でもあるメタ記憶センターの発見(Science 2013, 2017a, b)。

宮下先生には2人の師がいます。その1人は,日本の神経科学研究のパイオニアであり,小脳の研究で高名な,伊藤正男先生。東大の生理学第一講座の前任教授です。宮下先生は,おっしゃいます。

── 大学に入る前から伊藤さんの話を聞く機会がありました。物理学も好きだったし,いろいろな分野に興味があったけれど,伊藤さんの話が一番おもしろかった。だから,脳科学の研究者になろうと進路を決めたんです。伊藤さんのアドバイスは,「それならまず,学部では物理学を専攻するとよい」でした。物理学部在籍中も,伊藤さんのところには頻繁に顔を出していました。──

伊藤先生の書いた『ニューロンの生理学』を本棚から取り出し,懐かしそうにながめながら,宮下先生は話を続けました。

── この本には伊藤さんの考えがまとめられているけど,僕はこの本が出る前から伊藤さんの考えを聞いていました。彼はこう言ったんです。「脳の高次機能は,ニューロン1個1個から組み立てていくことができる」。衝撃を受けましたね,この言葉に。
当時はまだ,それを検証するためのぴったりした技術がなかったから,この主張は信念のようなものでした。『ニューロンの生理学』には,彼の壮大な夢が語られていたんです。当時可能だったのは,ニューロン1個の性質を調べることと,せいぜい脊髄反射弓と小脳まででした。大脳皮質はまだまだ全然できていなかった。──

1972年に東大物理学科を卒業した宮下先生は,1981年に伊藤研究室で博士号を取得します。1984年にはオックスフォード大学の客員講師になり,1989年に東京大学医学部教授となりました。伊藤先生の時代にはかなわなかった技術のブレイクスルーが,1980年代,1990年代,2000年代に起きたのです。

── 1980年代,サルに心理的課題などを行わせ,そのときに活性化するニューロン1個1個を測定できる技術が現れました。研究者として独立した僕は,この方法で脳の高次機能の研究をスタートすることにしました。1990年代になると,fMRIが登場し,ヒトの脳全体の活動を一気に測定できるようになりました。これはすごい技術だと,どこで使えるか探したところ,日立中央研究所にあることがわかりました。試しに使わせてもらうと,予想通りの分析力。fMRIが自分の研究室で使えるように奔走しましたね。そして2000年代になると,光遺伝学が登場しました。僕はこの3つの技術のブレイクスルー全部を高次機能研究に使うことができた。伊藤さんにできなかったことができるようになったのです。自分は幸せな時代を過ごせてきたと思います。──

技術のブレイクスルーが起き,今,脳研究がこんなに面白くなった時代はない──宮下先生のその言葉は,私たちも感じています。そして,技術はさらに発展し続けています。こんな時代に『カンデル神経科学』を出版できることを幸せに思います。

次回,宮下先生のもう一人の師の話へと続きます。

2022年7月12日 Yoshiko Fujikawa