見出し画像

ステルラハイツ6437

 たまこは広いリビングの床に寝そべっている。屋根を打つ雨の音が、さっきから強くなったり弱くなったりを繰り返している。どうやら巨大な台風が接近しているらしい。朝方、母から電話があった。

「超大型台風25号、日本列島を縦断するって。浸水の被害も出てる。キケン。家から出ないで。」

 今日は朝から空がどんより重たく垂れ下がっていたから洗濯はお休み。ひと通り部屋の掃除を終え、テラスに舞い落ちる枯れ葉を掃き出すと、待っていたかのようにザーッと雨が降り出した。
 近頃の雨は、南の国のスコールのように、突然降り出し、どしゃっと何度もバケツを逆さにする。
 
 こんな日は言われなくても外へ出る気は起きない。誰かゲストが来る予定もなければ、何か買い出しに行かなくちゃいけないものもない。たまこはホッとして、自分だけのためにミルクティーを淹れる。
 
 風にあおられていきなりに強くなった雨の音に、カラカラと枯れ葉のこすれる音が混じっている。最近になって盛大に飛び始めたとんぼなどは、こんな雨の中ではどうしているのだろう。
 
 ミルクティーをすすりながら、誰かが置いて行った映画のDVDを、観るということもなく流してみる。画面の中では、砂浜を走る子供たちの後ろで、青く晴れた空に入道雲がむくむくと広がっている。たまこはひと息つくと、テレビの電源をオフにして、外の音に聴き入る。

 ザザー、ザザー、と風にあおられて不規則に打ち寄せる波のような音、田んぼの水路を流れる濁流のゴポゴポいう音、閉め切っていてもどこかしらの隙間からひゅるるひゅるると入り込む唸った風の音、いろいろな音が自分勝手に暴れているようで、不思議とうるさくは感じない。むしろ人間の動く音がかき消されて、いつもより静かに感じる。

 たまこは、床に寝そべって手足を投げ出す。板張りの床のひんやりしたのが気持ちいい。思えば、子どものころから、こうして床に寝そべっているのが好きだった。
 仰向けになると、見慣れた大きな青い絵が目に入る。目を閉じると、外の音は一層強くなったように感じられ、青色は瞼の裏側にまで沁み込んでくるようだった。そうしているとそのうちに、たまこは深い水の底に居る、そんな気持ちになった。


 太古の昔、この家のある辺りは、実際に海へと繋がる大きな湖の底だったそうな。
 今でもこうして大雨が降ると、ぐるりを取り囲む山から底を目指して大量の水が流れ注ぎ、河と合流して、ざんぶりと海へ向かう。大地は昔を懐かしむように、豊かな水をたっぷりと湛える。
 
 海を渡ってたどり着いた民は、大地に湛えた豊かな水の恩恵を受けて、この地に住みついた。それは今でも変わらずに、多くの者が、豊かさに惹かれてこの地に移り住む。

 たまこももれなくそのうちの一人であった。この地に足を運ぶうちに、いつしか住みつくようになり、それから10年ほどの月日が過ぎようとしている。
 それはたまこの方が決めたようで、いつの間にかこの地にこの場所に絡めとられたようでもある。人間は思っている以上に、居る場所に在る環境と密に関係して、お互いに影響を受け合い与え合って生きている。

 大雨に共鳴したのか、不意に、たまこの目から涙がこぼれ出して目尻を伝う。それは声もなく、どんどんどんどん溢れ出し、耳に水が入り、膜がかかる。まるで海に潜った時のように。

 たまこは、また青い絵の中に入り込み、涙を流している。

 会いたい人に会えないのが、こんなにも切ないとは、会えなくなってはじめてわかる。

 ただもうそれは、過ぎ去った景色を懐かしんでいるだけで、胸の痛みさえも愛しくて、流れる涙もそのままに、仰向けに寝そべったまま、ただただ泣いていた。

 そして、自分でこぼした涙が大渦になって、たまこは、その渦に巻き込まれるように、眠りに落ちた。

 


 ハッと目を覚ますと、もうすでに雨音は止んでいた。窓の外では、重苦しさを掻き分けた雲の隙間から、強烈な金色の光が差し込み、夜を迎える直前の涼しげな空を激しく彩っていた。

 台風はどこかに逸れたのだろうか、風はもう穏やかさを取り戻して、虫たちは待ってましたと言わんばかりに空を戯れ、草の陰で音を奏でている。

 不意に眠りに落ちて、今まさに目覚めたばかりのたまこは、起きている自分と一体化していく中、モヤのかかったまんまの頭で、絶対直観的な違和感をとらえる。

何かがおかしい。何かが違う。

 充分に考えた後、たまこはひとつの結論にたどり着いた。

 そして、ガクンと力なく頭を垂れる。

 してやられた。

 この気持ちはいつぶりのことだろう。懐かしいこの感覚。鼻の奥にわずかな甘ささえあるこの感覚は、ミーコおばさんが最後に行方をくらましたあの時以来、久々にたまこの内に訪れた。

 頭を垂れたままでいると、次第に額や瞼の裏が熱くなってきて、意図せず笑いがこみ上げてきた。

 フッと鼻から漏れる自嘲気味の笑いが、だんだんに大きくなり、いよいよアッハッハと腹を押さえても堪え切れなくなった頃には、目からも鼻からも水が溢れて止まらなくなった。

 もう嵐は止んだところだというのに、たまこはひとり、笑いに泣きに叫んで、板張りの床にあっちへこっちへ寝転がりながら、ドシンドシンと地団駄を踏んで、大荒れに荒れた。


 リビングの壁からは、見慣れたあの青い絵がなくなっていた。周りの壁の色よりピカピカに明るく四角に取り残された跡が、それがずっとそこに在ったということを、ただ示していた。



 星雄は、自分の胸の高さほどもある大きな四角い包みを抱えて走っていた。思っていたよりも重くはない。足取りは軽かった。それでも包みはかさばり、走りっぱなしというわけにはいかず、途中で立ち止まって包みを持ち替えた。包んでいる布の一片がめくれて、中から青くでこぼこした表面がのぞく。

 あいつは。

 星雄は一瞬足を止め、しかし再び包みを抱えて、走り出す。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?