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ステルラハイツ6324

 たまこはキッチンでクッキーを作っている。
 地粉を計り、同量の炒った米ぬかと適量のシナモンパウダー、砂糖とひとつまみの塩を加えて、ふるう代わりに泡立て器でふんわり混ぜる。さらに菜種油と豆乳を加えて生地をまとめ、綿棒で5ミリ強の薄さに延ばして包丁で四角く切り分ける。フォークで表面に穴をあけたらトースターで15分ほど焼く。以前から、家庭用の小さな精米機を使う時に少しずつ出る米ぬかを、何かに使えないものかと考えていて、試行錯誤の結果、米ぬか特有の臭みも触感も気にならないクッキーの絶妙の配合を見つけた。シナモンは欠かせない。糖蜜の多い砂糖を使うのもポイントのひとつだ。ポリポリの食感にするために、それ以外は敢えて加えない。
 そこにあるもので、これぞというものを作った時、たまこはひとり静かに興奮する。そこに行き着くまでの熱中した時間は、あらゆるたまこを侵略しようとするものから身をまもる。

  ダリアはリビングのソファーに座って、新しい仕事の話をしている。こうやって二人が話をするのは数ヶ月ぶりのことだ。

 ダリアはダリアで興奮していた。
 このところ心の安らぎとは距離を置いて仕事の開拓に集中していた。心躍る展開があるかと思えば肩すかしを食らう、その繰り返しだったが、浮かれもせず弱音も吐かずに口をつぐんで一つの結果が出るまでは、と心に決めていた。
 シンガーとして一人でやっていくのは並大抵なことではない。営業もサポートするミュージシャンの手配も一人でやらなければいけない。華やかなステージに立つだけのように見せつつ、その裏で多くの人に気を遣い心の襞を養いながらやってきた。幸いと言うかあるべくしてと言うか、はじめのうちは保険の外交員をしながら唄ってきたのが役に立った。どんな人間にもドラマがあり、みんなそれぞれが主役、という気づき。こんな生活からは早く抜け出したいとばかり思っていた日々の経験が今に生きている。
 どんな仕事でも、自分がやりたいことを実現するためにすることは変わらない。ダリアはいつだって、なりたい自分であることを明らかにしてきた。そのために優子という名前を封印した。それが間違っているとか何だとか、それは他人が決めることではないし、答えは誰にもわからない。そんな現実の矢面に立つ時、ダリアであるという表現や立ち居振る舞いが、人々を惹き付ける力や架け橋になった。もはやそれは、自分自身の手を離れて動き出した一人の人格であり、ダリアであるということが一つの仕事であった。一方でそれが極まっていくほどに、時々とてつもなく誰かにすべてを委ねたくなった。恋人が出来るとその葛藤は収まり、仕事の展開も緩やかになるのが常だった。

「男にばっかり求めていたのが間違いだったのよ。わたしを強烈に求めて導く相手は男でも女でも構わないし、それは恋愛じゃなくてもよかったの。」

 ダリアは喋り続ける。最高の仕事上のパートナーを見つけた。ダリアのステージを観て、是非マネージメントをやりたいと申し出てきた女性で、新しい事務所との契約もその人が探してきた。若手のクリエーターが集まる新進気鋭の事務所は、最近有名になりつつあるラッパーを売り出して業界でも話題になっている。
 とかなんとか、興奮して喋り続けるダリアの話は、たまこにとってどこにもつかみ所がないように思えた。はっきり言って面白くなかった。それでも、久々に意気揚々と喋るダリアを見るのは嬉しかったし、親しい人の新しい門出を何故だか素直に喜べない自分の方が悪いと決めて、うっ滞してくる気持ちを何とか追いやっていた。

 チン、とトースターが鳴り、扉を開けると白い煙が噴出して、クッキーは見事に焦げていた。比較的黒くなっていないのを選んで口にするも、米ぬか特有の旨みが苦みに変わって、とても美味しいとは言えない代物になっていた。
「買い物に行ってくる。」
 たまこは、焦がしたクッキーをザッとゴミ箱に流し入れて、キッチン内の足りないものを確認すると、ステルラハイツを飛び出した。

 ダリアは久々に機嫌が良かった。
 今朝目覚めると高く晴れた空が目に入り、なんだかいい予感がする、と思った次の瞬間に新しいマネージャーからの吉報を受けた。小さいが勢いのある芸能事務所がダリアの才能を買って所属アーティストとして契約を結ぶことになった。そうすれば、しばらくずっとダリアが一人でやってきた雑務を事務所側が受け持ってくれて、自分は唄うことに専念できる。関わる人員が多くなる分、それまでよりも規模の大きな仕事にステップアップするだろう。
 そして住居や生活費のサポートが受けられる。事務所は社宅として都内にマンションの一部屋を充てがってくれ、毎月定額の給料も発生する。ステルラハイツの諸々込みで月5万円という破格の家賃に、それでも汲々していた日々はもうすぐ終わりを告げる。都会で暮らすのと田舎で暮らすのでは環境も出入りするものも違う。
 ダリアは泥の沼に根を張った大輪の花が見事に開くところを想像した。人にもそれぞれに相応しい畑がある。仕事の進展のなさや男に振られたことで、この家そのものが悪の巣窟のようにも思えたが、それももはや去る場所だ。自由な種は相応しい土壌を求めて旅をする。立つ鳥後を濁さず。ダリアは鼻唄をうたいながら掃除をする。

 ミミ子は部屋の中にいた。
 目覚めて直ぐに風向きが変わったのを察した。空は青く高く晴れ渡っているが、眠りが足りずに体は重たい。このところ麻雀の客がひっきりなしに訪れる。ゆうべも知り合いが数人客を連れてきてゲームは朝まで続いた。夜中であろうと朝方であろうと、何かしらすっきりした客はすぐにミミ子の部屋を去ってもらう。余計な話は要らない。
 客の帰った後はどっと疲れが押し寄せる。そんな時ミミ子はいつも、モンブランやチーズケーキなどこってり甘い物を食べて身も心も満たしていたのが、このところはさらに別の欲求が顔を出す。
 客が帰って部屋に残るのはミミ子とワンさんの二人きり。締めに大好物のラーメンをさも旨そうにすするワンさんを、机を囲んで隣に座るミミ子はチラリと見る。机の下の足を絡ませてみようとするも、ワンさんは意図せず立ち上がり食べ終わった丼を片付けに行く。ミミ子の皿まで片付けて「ウマカッタネ」と無邪気に笑うと、ワンさんはこともなげにミミ子のクイーンサイズのマットレスの隅に横たわって、あっという間に寝息を立てる。他に寝る場所はない。
 ミミ子は隣に横たわり、思い切って体を寄せてワンさんにピタリとくっつくが、寝息が荒くなるだけで他に反応はない。一旦眠りについたワンさんを起こすのは一筋縄ではいかない。しかしそれでも気持ちを抑えられないミミ子がちょっかいを出し続けていると、ワンさんは半分眠ったままで荒々しく体を起こし、何語かの呪詛のような言葉を叫んで再び眠りに落入った。初めて見るその様子にミミ子は驚くも、再び穏やかな寝息を取り戻したワンさんの横で、目覚めてしまった欲望に悶々としながら浅く眠るほかなかった。

 たまこは近所のパン屋さんに居た。
 自家製の酵母で膨らました生地を使い石釜で焼き上げるこの店のパンは、香ばしく堅い外皮に歯を当てるとほんわかフルーティーな香りがして、噛みしめるごとに粉の甘みが引き出されてくる。試食だけでも満たされてしまうくらいの幸せ感の中、好きなパンを数種類ピックアップする。美味しいパン屋で気の向くままにパンを選び、気の済むまで食べる。それはたまこのストレスを解消する一つの方法だった。いくつか選んだパンを袋に入れて貰い、外に新設されたイートインスペースでカフェオレを飲みながら、パンを頬張る。
 青く晴れた空に緑濃い山々が映える。近くの小川ではしゃぐ子供たちの声が響く。あんパンにはカフェオレが合う。たまこはもうすでに気が楽になり、今晩のおかずは何にしようかなどと考えていた。


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