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ステルラハイツ6326

 夕陽は赤い。それが当たり前のことだと誰が決めたのか。この世に当たり前なことなどない。この夕陽だって、隣で見ている此奴にはブルーに見えているかもしれない。水田に囲まれた道の途中で足を止め、見事な夕陽を見つめながら、たまこがそんなことを思って其奴をチラリと見ると、

「火星では、ピンクの空にブルーの夕陽が沈むそうです。」

其奴は夕陽を見つめたままでそんなことを言う。たまこは別に驚かない。此奴が人の心を読めるとかいう訳じゃないし、単なる偶然というわけでもない、今日はまだしばらくそういうことが起こり続けるのだとたまこは納得する。

 人と人とがエネルギーの循環をひとつにするというのはそういうこと。たまこの体はそれを知っている。そしてきっと此奴も、自覚しているか否かはさておき、それを知る類の人間だ。身体を交じらわしてみるとそれがよくわかる。それはことさらに騒ぎ立てることではないが、気持ちいいという素直な感覚に従うと、からだの巡りはよくなる。


 二度寝から覚めた時、太陽は一番高くまで上り、今日も暑くなりそうだと感じたので、たまこは扇風機のスイッチを入れてそのままベッドに横たわった。隣の其奴はまだ起きない。今日はもう家のことは、掃除も飯炊きも、何もやらないと心に決めた。他の住人のことなどどうでもいい。ここへ来て初めてそう思ったが、それは前から思っていたことのようにも感じる。

 扇風機の風に晒すように手足をバタバタさせると、其奴が目を覚まし、伸びをしながら横たわるたまこの脇の下に顔を埋めてくる。
「汗かいてるからやめて」
と言うと、逆に其奴は抗うたまこを制して脇の下に舌をあてがい始める。やめて、と言いながら、たまこの抗う力が抜けていく。

 人間のダメの奥には甘美な悦びが秘められている。それは密林に潜む果実のようなもの。本能はそれを探り当てられることを求めている。それを理性はダメだと言う。ダメヨダメヨも好きのうち。人類の歴史の中で教えられもせずに伝えられたこのやりとりは、決して無下にされていい戯言ではなく、言わずもがな誰もが有するもはや秘法であり、それこそが性というもの。性にまつわる情報は幾千万にも共有されるが、営み自体はどこまでいっても個人的なもの。

 日暮れ前に雨が降った。数日ぶりに熱くなった大地を冷ます恵みの雨が勢いよく屋根や地面を叩き付ける音を聴きながら、たまこはまた其奴と身体を交じらわせて、雨音と、心臓の鼓動と、身体の動きとが調和するのを楽しんでいた。

 しばらく続いた雨が静まり始めて涼風が吹き込むと、たまこはハタと体を起こし「虹が出る」と言ってTシャツとズボンを身に着けて部屋を出た。リビングには誰もいなかった。キッチンのカウンターの上に、ダリアからの置き手紙を見つけた。

「荷物は後で取りに来ます。ダリア」

 大きな文字でそれだけ書かれた紙切れが、いくつかのかぼすを上に載っけて置かれていた。たまこは別に驚かない。ただ、かぼすを握りしめた時に柑橘特有の爽やかな匂いが鼻をかすめ、いつだったかダリアとみかんの皮をどうやって剥くかについて話したことを急に思い出した。


 あれはいつかの年越し前に、たまことダリアで大掃除をしている時だった。
 ピンポンとチャイムが鳴り、たまこはキッチンの棚卸しを、ダリアは脚立を立てて高い窓の拭き掃除をしていて、それぞれに目の前の仕事に熱中するあまり一度はチャイムを聞き流したのが、もう一度呼び立てるようにピンポーンと鳴り響くもので、たまこが手を止め玄関に出た。
 扉を開けると、日に焼けたおじさんが軽トラックの荷台に沢山のみかんを載せて売りに来ていた。四国から直送だと言う沢山のみかんから漂う瑞々しい香りに思わず手を伸ばしたたまこは、何種類か試食した挙げ句、段ボール一杯の詰め合わせを買い上げた。
「こんな一杯、何してんの」
 高い窓を吹き上げたダリアは、段ボールを抱えて入って来たたまこに呆れるような口調で言いながら、その中のひとつを手に取った。ヘタの部分が盛り上がったデコポンというみかん。
「あーあ、これハウスものだよ。」
 美味しいのはやっぱり露地物だねえ、とか何とか文句を言いながらもダリアはデコポンを半分に割り、薄皮がついたままの果実を口に入れ、大袈裟に「酸っぱあい」などと言う。たまこは、そんなダリアをしらじらと見つめて、床に置いた段ボールの中からひとつ手に取ると、これもやっぱりデコポンだった。
 そのてっぺんが盛り上がった姿が、目の前で髪を高くお団子状にまとめたダリアのシルエットに似ていて、たまこはデコポンを指ではじいた。そしてひと思いにその凸部の根元に指をブッさし皮を剥こうとすると、ダリアが「キャー」と悲鳴を上げた。
 聞けば、みかんの皮を頭から剥くのは非常識だと言う。その理由が「かわいそうだから」と言うではないか。日頃から肉食を常としている上に、さっきまであんなにハウス物だ何だと貶めていたダリアが、みかんがかわいそうだなんてちゃんちゃらおかしい。じゃあダリアはどうやって剥くのかと聞くと、剥く前に半分に割ると言う。それだとかわいそうじゃないという論理もよくわからない。
「何がかわいそうなんだか」
 たまこがダリアの反応を無視して頭から皮を剥き始めると、ダリアはぽつりとつぶやいた。
「似てるじゃない、あたしに」
 わかっていたのか。たまこは急に手にしたデコポンが愛おしくなって、いっそひと思いに皮を剥いた。薄皮もきれいに捲って、瑞々しい果実を口に入れると、確かにとっても酸っぱかった。


「虹、出てますね。」

 たまこがかぼすを手に感傷に浸っていると、後を追って部屋を出て来た其奴が虹を見つけてテラスへと飛び出した。追ってたまこも外へ出ると、東に立ち並ぶ山の上から空に向かって、太く大きな虹が直立しているのが見えた。たまこも其奴も、わあと素直に歓声を上げる。

「あんな虹初めて」

 太く立ち上る先は雲に入って、ちょうど真っ直ぐに虹の柱が立って空を支えているように見えた。話をするのも惜しまれて、しばらくそのまま見ていると、そのうちに虹はにじんで消えた。虹が消えてしまうと、夢から覚めた後のような、少しだけさみしい気持ちになる。

「今日も泊まっていく?」 

 たまこが聞くと、其奴は申し訳なさそうに答える。

「今日は、ちょっと行くところがあって。」

 あそう、と出来るだけ何気なく言うと、たまこは中へ入った。ずっと居て欲しいと思うなんて一時の気の迷いだとしても、今日はこのまま誰かとくっついていたかった。それが伝わったかのように、其奴は後ろからたまこを捕らえて抱きしめた。

 こうして密度ある物に抱きしめられていると、触れ合うところから徐々に身体じゅうに熱が伝わって脳の奥が痺れていく。余計なことは何も考えなくて済む。たまこが目の前に回された腕に唇を付けて触感を味わっていると、其奴は少しモゾモゾと動きながら言った。

「たまこちゃん、ボクまた立ってきちゃった。」

 あそう、と出来るだけ何気なく言うと、たまこは腕をすり抜けてキッチンへ向かった。お腹がすいたので何か作ろうとするも、今日は適当な材料が揃っていない。そう言えば今日は家のこと何もしないんだっけ、と思い出したけれど、腹が減っては戦は出来ない。たまこは戸棚や冷蔵庫の中をチェックして、必要な物を思い浮かべて、まだモジモジしている其奴に向かって言った。

「ねえ、ビール買ってきてよ」

 其奴は下半身でモジモジしながら、え~っと不満の声をあげた。

「うっそ、一緒に行こう。」

 たまこは買い物袋を片手にキッチンを飛び出し、モジモジする其奴の分身に軽くタッチして脇を通り抜けた。其奴はキャっと声をあげた。

 今なら、夕暮れを見ながら歩いて、閉店間際のスーパーに滑り込める。たまこは足取りも軽やかにステルラハイツを飛び出した。後から「待ってよー」と言いながら其奴が付いてくる。空は今まさに夕焼けに染まろうとしていた。


 買い物を終えて、見事な夕陽を眺めながら帰る途中、たまこは其奴と自然と手をつないでいた。身体を重ねると後効きで愛しさが沸いてくる。たまこが其奴の骨張った手を指先でこすると、思いのほか滑らかで繊細な指が絡み付いてくる。二人は手をつないだまま夕焼けの下を歩いた。


 たまこはステルラハイツに来てからこれまで、ここで知り合った何人かと身体の関係を持った。

 この人と繋がる、と目のあった瞬間にわかる、それは欲望というより確信めいた直感としてたまこのもとを訪れる。直感の種は急速に芽吹いて成長し、開いた花の蜜を吸う蜂のように相手は惹き付けられて、ひと時を過ごした後に離れていく。同じ相手と何度かの逢瀬を重ねることはあっても、それは何度かに限られた。それまでのような恋人同士という触れ合いをたまこは求めなかった。それでも、相手が自分の元を訪れなくなると、隠しきれない寂しさが沸き上がった。花は枯れる。それは土の一部になってまた新たな種を温める。

 ミーコおばさんはたまこの素行を心配したり咎めたりすることはなかったけれど、常にそれには気付いていた。

 何年か前に一度だけ、花が咲き乱れて蜜蜂が増え交雑するようなことになった時、ミーコおばさんは半ば無理矢理にたまこを連れ出して、飛行機に乗せた。湯布院に行って、二人でとろりと白濁したお湯に浸かりながら、ミーコおばさんは延々と最近好きなモノや嫌いなモノについて語った。

「何が好きで何が嫌いか、自分にしかわからない感覚はハッキリさせておいた方がいいのよ。」

 たまこはそんなミーコおばさんを好ましく愛おしく感じていた。秘湯の旅館に連泊して洗練された静けさや心を尽くしたもてなしを堪能してステルラハイツに戻ると、そこからしばらくパタリと来客はなくなった。寂しくはなかった。清々とした安心感に満たされながら、たまこは自分の中に眠る種について考えた。種から吹き出るのは、たまこを彩る花であり、絡めとる蔓でもある。


 ステルラハイツでは、JINちゃんが庭のフェンスに絡み付いて全盛を極めた葛の蔓を切っていた。たまこと其奴が帰ってきたのを見ると、JINちゃんは剪定ばさみを持ちながら夢中になっていた手を休めて「おかえり」と微笑む。

「これ、本当は夏になる前にやっとかないといけないよ。」

 額の汗を拭って手渡されたビールを飲みながら、JINちゃんは庭の手入れについて話した。

 雑草といえどもそこに生えている意味があるから無暗に引き抜いたりはせず、ただそこに人が住むという意志を自然に伝えるため、はびこらないように手を入れる。それは山の中に住むおじいちゃんからJINちゃんが教わったこと。おじいちゃんの庭は草だらけで、おじいちゃんはそのほとんどの名前を知っていたし、その中のいくつかを日頃から食べたり薬にしたりしていた。JINちゃんが山で遊んで怪我をして帰って来た時にも、おじいちゃんは何かの葉っぱをよく揉んで傷口に貼ってくれた。生葉の青い匂いを嗅ぐと痛みが和らいだのを覚えている。

「さて、うちのおっかさんがかぼすを送ってきてくれたから、さんまを炙ろう。」

 JINちゃんはそう言うと、其奴にうちわを渡してまた火を熾すようにと命じた。キッチンのかぼすはJINちゃんの母が大分から送ってきたものだった。たまこはかぼすで思い出したことをJINちゃんに話す。

「ダリア、出て行ったよ。」
「うん、手紙見た。勢いで行動するのがあの子らしいけど、なんか騒がしいね。」

 JINちゃんはゆうべ遅くまでテラスでダリアの話を聞いていた。新しい仕事の話、唄い手であるという強い意志、そしてミミ子との喧嘩の顛末。

「ミミ子にはっきり言われたらしいんだ。新しい事務所の話、ろくなことが起こらないから辞めろって。わたしもなんだか怪しいなあとは思うけどね、チャレンジしようって勢いづいてるところに蓋されたもんだからダリアは反発したんだよね。ミミ子も、虫の居所が悪かったんじゃない?相当クソミソに言ったみたい。」
「酷かったです。」

 其奴が、七輪の中で火の点いた炭を扇ぎながら口を挟む。網の上で脂の乗ったさんまが長い身を青く光らせている。

「わたしは、面白くない話だなと思った。」

 たまこはダリアの話を聞いて思ったことを、そこで初めて素直に口にする。それをそのままダリアに伝えようとは思わなかった。勢いをくじくのは気が引けたのもあるが、もっと違った伝え方をしたかった。

「うん、それはあんたのやり方だよね。」
 JINちゃんはそう言って2本目のビールをプシュッと開ける。缶の口からビールの泡が溢れ出す。たまこはキッチンに布巾を取りに行く。

 すると薄暗いリビングの隅にぼうっと立ち尽くす影を見て、たまこは思わずヒッと息を呑む。突然の驚きに声は出なくなるものの、数秒の後、それがミミ子だと気付いてたまこはホッとする。

 ホッとしたのもつかの間、ミミ子の変わりようにたまこは再び息を呑んだ。姿形は変わらない。小さくて大きなミミ子さんがそこに居る。しかし発するエネルギーが違いすぎた。ミミ子特有の福与かさの代わりに、底なし沼のようなどこまでも深い暗さを感じた。たまこは溢れてくる唾を呑み込み、やっとの思いで声をかけた。

「いないのかと思った。」
 しかしミミ子の反応はなく、またたまこは自分が発した言葉がさらにミミ子の変化を際立たせたようでほとんど恐ろしくなり、
「外でさんま焼いてるよ」
と言って、布巾を掴んでテラスへ戻った。
 ミミ子は鬱々とした動きで、それでも徐々にテラスへと歩を進めた。

 テラスに出てきたミミ子を見ると、たまこ以外の2人も思わず息を呑んだ。明かりに照らされたミミ子は、昨日とは別人のように頬はこけて髪もボサボサのまま、明らかに泣き腫らした目で、どんよりとした空気を身に纏っている。

「どうしたの、ミミ子。」

 JINちゃんが当然の質問をするが早いか、ミミ子は赤く腫らした目からハラハラと涙をこぼし、次第に嗚咽が止まらなくなって、丸い体を震わせながら小さな子供のように声をあげて泣き始めた。不思議と声をあげる毎にミミ子の周りを覆っていた暗い空気が晴れて行くようにたまこは感じた。

「どうしたのよ、ミミ子。」
 JINちゃんが優しい声で再び同じことを聞くころにはミミ子も泣く気がおさまったようで、余韻をしゃくり上げながらポツリと話した。

「ワンさん、出て行った。」

 JINちゃんもたまこも其奴も、返す言葉はなかった。小さくはない家の中で、今日はふたつもの別れが告げられていた。

「立ち上がる虹は旅立ちのしるしですから。」

 しばしの沈黙の後、其奴がつぶやき、今日はそろそろ帰りますね、と立ち去った。

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