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ステルラハイツ6390

 たまこはまた夢の中にいる。

 青い碧いどこまでも続く、空のような海のような空間を、両腕で懸命に掻き分けながらひたすら先へと進んでいる。
 不意に、あっこれはこないだの夢の続きだ、とわかる。
 その瞬間に隣をまたイルカが並走しているのを感じる。目で確認しなくても、イルカが幸せな表情を浮かべているのがわかる。そしてたまこもまた心から滲み出る幸せに、微笑まずにはいられない。
 
 からだ全体に伝わる幸せの感覚に思わず寝返りを打つように身を翻し、並走する存在に目をやると、なんとそこで微笑んでいるのはミーコおばさんだった。仰天しながらも進み続けるたまこの周りを、ミーコおばさんは変わらぬ微笑みを浮かべながらイルカのように身を翻し回った。

 これは夢だ、とわかっていながら、夢の中のたまこは現実に引き戻されたように、柔らかい薄衣のような幸せの感覚から引き剥がされる。そして突然、体の中に怒りが満ちる。

「なんでここにいるの?」

 叫んだ瞬間に、たまこは自分がどこか広い部屋の中で椅子に座り、ミーコおばさんと向き合っていることに気が付く。けれどもまだ夢からは覚めていない。そこは、さっきまでの無上の幸せな感覚からはほど遠い、壁に仕切られ自由な動きを奪われ窮屈な感じのする、しかし不思議と懐かしさのある空間だった。
 向かい合ったミーコおばさんは相変わらず満面に微笑みを湛えている。その表情が自分には手の届かない余裕に感じられて、たまこはますます苛立ちを覚える。その苛立ちに呼応するように、部屋の中は歪んで動いた。

「なんでここにいるのよ。」

 再びたまこが叫ぶと同時に、向かい合ったミーコおばさんまでもが大きく歪み、ちぎれそうなほどに細くなった笑顔には一瞬悲しみがよぎった。そしてたまこは、この部屋が自分の心に合わせて変化していることに気づく。

 目を閉じて呼吸を整え、これは夢なのだと何度か自分に言い聞かせる。落ち着きを取り戻し、再び目を開けると、たまこは広い砂漠の上に寝そべっていた。隣を見ると、ミーコおばさんが同じように寝そべっている。たまこが何も話しかけずにそのまま寝そべっていると、ミーコおばさんは静かに鼻唄をうたい始めた。それはたまこのまだ僅かに波立った心を鎮めていった。そしてたまこはそのままミーコおばさんの方を見ずに話しかけた。

「ミーコおばさん、今幸せ?」

 それはその時考えてもいなかったことで、自然と口から出たというようなものだった。聞きながら、返ってくる言葉は容易に想像できた。それでもたまこは、ミーコおばさんからその言葉が出るのを待った。

「幸せよ」

 二人はそのまま並んで温かい砂の上に寝そべっていた。するとしばらくして、たまこは自分の体が徐々に砂の中に沈み込んで行くのを感じた。驚いて身を起こそうとするよりも早く、ミーコおばさんの手が優しくたまこの手を握った。

 大丈夫だからそのままでいて。

 声にならないミーコおばさんの声が、手の温もりを通して伝わってきた。たまこは目を閉じ、再び呼吸を整えて、まるで大きな砂時計を逆さにしたように、砂に包まれた体ごと、底なしの穴の中に吸い込まれて行くのに身を任せた。握られた手の感覚のみが、確かにたまこを恐怖から守っていた。
 そのまま落ちて堕ちていくうちに、いつしか恐怖はなくなり、そのうち落ちるという感覚からも解放されて、たまこは自分が宙に浮かんでいるように感じた。握られた手はもうすでに離されていた。

 目を開けると、たまこはまたあの青い空間にいて、遠くの方をミーコおばさんが自由に泳ぎ回っているのが見えた。

 たまこは再びゆったりとした気持ちになり、微笑みを浮かべ、自分の意志ではっきりと両腕を掻き分けながらミーコおばさんのいる方へと進んで行った。

 こちらへと近付くたまこに気付いたミーコおばさんは、大きく手を振った。二人は微笑みに包まれながら、青い碧い空間を一緒に泳いだ。

 そこでは特に言葉を発することをせずにも、たまこはミーコおばさんに思いを伝え、ミーコおばさんはたまこに思いを伝えることが出来た。

 いつの間にか二人はイルカの群れと合流し、そのままみんなで光の射す方へと進んで行った。


 そこでたまこは目を覚ます。今、まさに夜が開けようとしている頃合いだった。隣の部屋から、イルカの発する超音波のような、父のいびきが聞こえてくる。突然その音が荒くなり、一瞬止まり、再び一定の音量で聴こえ出す。
 たまこは起き上がり、足音を忍ばせて父の部屋へと入ると、静かに枕元に近寄り、右の手の平を、父の首と頭の境目へそっと忍ばせた。そして、左手を優しく額の上へ置くと、父のいびきは止まった。こうしようと思った訳ではない。どこかに力を加えることもなかった。ただ、そうすればよいことを瞬時にたまこはわかっていた。そして、しばらくそのままの体勢でいながら、先ほどの夢に立ち返った。

 言葉にならない会話の中で、ミーコおばさんはたまこに父のことを伝えた。母のことは大丈夫だから、父に心配をさせないようにと伝えていた。

 どうすればいいかは言わなくても、たまこにはわかっていた。父は基本的に娘のすることにとやかく口出しするようなことはなかったが、いつでもたまこのことを気にかけているのは知っていた。たまこは首と額に手を添えたまま、上から、安らかに眠る父の顔を見つめる。すると突然父が目を開ける。たまこは一瞬驚くも、軽く息を吐き出して必要なことを口にする。

「お父さん、わたしは、ミーコおばさんみたいにどこかへ行ったりしないからね。」

 これはまた用意をしなくとも自然とたまこの口から出た言葉だった。父はそれを聞くと、うんと唸り、そのまま再び目を閉じた。たまこは静かにそっと添えていた両手を外す。父のいびきは深い寝息に変わっていた。


 ここ数年行方をくらましていたミーコおばさんは、愛する人と共にハワイで暮らしていた、というのを母から聞いた。

 それはなんとなくミーコおばさんらしい行方だと納得がいった。たまこが驚きだったのは、母がそのことを前から知っていたということ。
 確かに母は何度か「ミーコから連絡はないのか」とたまこに聞いてきたが、それはそのまま言葉の通りで、母の方にはミーコおばさんから何度か連絡があり、たまこには自分から連絡するまで言わないでくれと伝えられていたのだ。
 連絡があったとはいえ母にも、ミーコおばさんがどこの誰とどんな暮らしを送っていたかなど、詳しく聞かされることはなく、ただいつも幸せだということを確認するのみで、母からもそれ以上のことを聞こうとしなかった。

 それもまたミーコおばさんらしいエピソードだと言うことが出来た。ただ、たまこはまたしても、してやられた感を味わうことになった。
 それでも以前のように、悔しさや憤りを感じることはなかった。それは今朝の夢を過ごしたから。その話を聞いた母は、
「あら、あの子ったら、たまこにはちゃんと会いに来たのね。」
と、少しだけ悔しそうにして見せた。

 ミーコおばさんが移住先のハワイで、イルカのトレーナーの訓練を受けていたこと、そしてその訓練をしていた海で、愛する人と遊泳中に行方をくらましたことを聞き、たまこは夢を含めたすべてのことが腑に落ちて、驚くこともなかった。

 ハワイからの電話を受けた母は、その晩はさすがにショックを隠せず、みんなとまともに話もせず床に伏してしまったが、朝になってたまこから夢の話を聞くと俄然元気を取り戻した。

 父は、夢の出来事でそんなにも楽観できる女性二人の心がわからなかったが、ともかく母がみるみる元気を取り戻したことに安心して仕事に出向いた。今朝方寝床でたまこと交わしたやりとりについては、覚えていないのか、まるで話に出なかった。たまこはそれでもいいと思った。そして、その日のうちに荷物をまとめて、実家を後にすることにした。

「もう少しゆっくりして行けばいいのに。」
 母は心底そう思っていたが、たまこはステルラハイツでやることがあるのだときっぱり告げた。数日前、実家に帰って来た時の不安定な感覚は、どこかに吹き飛んでしまっていた。
 ミーコおばさんの行方については、新しいことがわかり次第、ハワイから母へ連絡をもらう手筈になっていたから、たまこも「何かあったら」と母に言いはしたが、もう二人ともあまり気にかけてはいなかった。
 事情を知っている人にだって理解は出来ないかもしれないが、ミーコおばさんが行方不明なのは昔からの日常茶飯事だし、あの人はどこかの世界で幸せにやっている、たまこと母と、そしてミーコおばさんとの間では、それすらわかればあとは気にすることはない、という共通の認識があった。実家で過ごしたこの数日の間に、たまこはそのことを強く実感した。

 帰る間際に母がお茶を入れて、それを飲みながら二人はまたミーコおばさんの話をした。


 ミーコおばさんが初めて行方をくらましたのは高校生の頃、いつものように制服を着て家を出て、3日後に東京で警察に保護された。
 田舎の町でひとり、ミーコ少女を育てていたミーコおばさんの母は「お願いだから高校を卒業するまでは大人しくしていて」と約束をして、きちんと約束を守った娘の卒業と同時期に命を絶った。もともと精神の弱い質で投薬治療を続けていた。
 それからミーコおばさんは正々堂々と行方不明になって、数年後、たまこを身ごもっていた母の元に現れた。ミーコおばさんは母の妊娠をそれはそれは喜んで、そこからしばらく母のところに居候をして何かと甲斐甲斐しく家のことをした。
 父と母とミーコおばさんの3人で、たまこの名前を決めた。生まれてからもしばらく、母がたまこにつきっきりで居る間に、ミーコおばさんが家の仕事をして、父は祖父から引き継いだ医院を休むことなく開けていられた。
 家は医院の3階にあって、みんなはいつでもそこにいることができたから、父は患者さんが帰る度に上へ上がってたまこの顔を見ては、また呼ばれて下へ下りていくという日々だった。
 4階にはミーコおばさんの住む部屋があった。広い物干し場もあって、たくさんのシーツや赤ちゃんのオムツなどが、いつでも風にひらめいて踊っていた。
 そして、陽だまりのようにあたたかな暮らしがつづいたある日、ミーコおばさんは行方をくらますのだ。


「あの子はもう帰ってこない気がするわね」
 何気なく、たまこが初めて聞く話をした母は、そうたまこに呼びかけた。
 たまこは何も答えることができないまま、母と抱き合って、家を出た。

 ステルラハイツへ帰る道すがら、たまこは夢見る間もなく過ぎ行く景色を見つめ続けた。その途中で思いもかけない出会いが待ち受けているとは、知る由もなかった。

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