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ステルラハイツ6418

 星雄と空は当たり前のようにステルラハイツに住みついて、また久々にステルラハイツは満室となった。といっても、星雄はいつもリビングにいるか、たまこの部屋で寝ていたし、どうやら空とJINちゃんも、いつしかオレンジの部屋で寝起きを共にするようになっていた。
 
 星雄より6つ年上の空は、JINちゃんより十五歳若い。それでも二人は一緒にいると、長年連れ添った老夫婦のような趣があった。JINちゃんは、どうも口数の少ない男に弱い、と冗談めかして言う。

「わたし、ニューヨーク行かないことにしたよ。」

 ある朝、遅起きの男たちをベッドに残して、二人でコーヒーを飲んでいる時に、JINちゃんは照れくさそうにそう言い、たまこは微笑みを返す。
 JINちゃんのパジャマは相変わらずトラ柄でGPDだったけれど、顔は前よりもふっくらとして、頬はバラ色に上気している。
 真実は常に塗り替えられていく。


「あのさあ。」
 
 バラ色に頬を染めたJINちゃんが、少し言いにくそうに切り出す。


「星雄は悪いやつじゃないけど、信用はできないよ。」


 たまこはいつも言いにくいことを言ってくれるJINちゃんに感謝しているから、そのまま黙って話を聞く。

「空からの話ね、」




「なんで嘘ついたの。」
 
 その晩、水色の扉の中に入ると、モバイルでテレビを観ていた星雄に、たまこは何気なく言ってみた。

「何を?」

 星雄はしらばっくれる。その顔に悪びれた様子はみじんもない。


「星雄の母親は、ミーコおばさんじゃないでしょ」

「えっ俺そんなこと言ったっけ。」

 たまこはため息をつく。この子を問い質す気はない。ただ、微妙に話を本質からずらしながら、こちらの様子をうかがう星雄のやり方に、二人きりで話していると、つい、苛ついてしまう。


「この家の主人の息子だって、言ったじゃない。」

「ああ、あの場合はそう取ってもらった方がいいかなって感じもあったけど、俺は母親とあの人のことはいつもそう呼び分けてたし、嘘はついてない。」

 この子には何を言っても無駄だ。たまこは急に目の前に居るのが見知らぬ子供のような気になって、眉間に寄った皺をほぐす。


「それに、ステルラハイツって、あの人がオヤジと暮らしてた家のことだろ。その家の主人の息子、うん、間違ってない。」

 さらに星雄はそう言って、ニンマリと笑った。
 
 
 それを聞いてたまこの脳裏に、イタリアでミーコおばさんと星おじさんが仲睦まじく暮らしていたあの日の光景が浮かび、頭がカーッと熱くなった。

 
 次の瞬間、たまこは目の前で笑う星雄の頬を、バッチーン、と思い切り平手で打っていた。

「・・・いってーな。」

 星雄は、赤くなった頬に手を当てて、ペッと小さくつばを吐き出し、冷ややかな目でたまこを一瞥すると、荒々しく水色の扉を開けて、部屋を出て行った。


 たまこの目から一筋の涙がこぼれた。打った手はジンジンと熱くなっていた。


 
 6歳の空は、自分の母親とミーコおばさんが話すのを聞いていた。
 それは、新しく仲間になった赤ん坊のことで、自分に初めて出来た弟にまつわる話だったから、幼心に強烈に焼付いた。


 ミーコおばさんと星おじさんは長年連れ添っていたけれど、その間に子供を授かることはなかった。
 それより二人はアーティストとしてお互いを認め合っていたし、何より星おじさんはミーコおばさんをこよなく愛していたので、時には何人もそばにいた愛人との間に子供は作らないと決めて、女たちもそれを了承していた。中には、本当に体の関係はなく、星おじさんから子供のように可愛がられていた女もいた。
 それがある時、孫と言ってもおかしくないほど歳の離れた東洋人の女性が星おじさんの元に現れ、すべてのバランスが崩れた。
 星おじさんは溢れるバイタリティーで彼女の暮らすもうひとつの家を建て、そこにも通うようになった。
 そして月日が流れ、ある日、その家で子供が生まれ、あろうことか、その子を置いて、その女性は消える。
 去ったのか死んだのかは不明である。
 ただ、ミーコおばさんは、星おじさんに、その時、すべての話を聞かされた。泣きながら、許してくれ、と懇願されたけれど、さすがにもう、そのままでいることは出来なかった。

 そしてミーコおばさんは、残されたその子を連れて、仲の良かった空の母のところに身を寄せた。
 


 どうもしょうもない話だが、それを聞いたたまこは、うそぶく星雄を責める気など元々なかったのが、木っ端みじんに消え失せた。

 星雄の人生に到底立ち入ることは出来ない。それは誰に対しても、そもそも他人の人生に立ち入ることなどできない。
 ひと時介入したって、いつかはどうせ立ち去るのだし、人はみんな自分の気が済むまでやろうとするのだから、やりたいようにやるしかないし、やらせるしかない。
 教えられた方法で気を紛らわせても、表に出るのを抑えられた欲求はことを終わらせない。ことが終わるのは、気が済むまでやってみた後か、愛によって世界が更新された時。

 星雄がミーコおばさんの息子である、という話は、聞いた時点でたまこの直感が否定していた。どこかで、嘘であることはわかっていた。

 問い質すつもりなんてもちろんなかった。ただ、嘘が明らかになった時、自分は知ってるってことを星雄に伝えたかった。だけだった。

 星雄に自分のことを見て欲しがっている。星雄を自分のもののように思い始めている。たまこは小さく震えた。


 たまこは、いつもどこかで冷静に物事を観察する癖があった。それは病院にいた頃の仕事により養われた癖であり、もっと以前から身に付いていた性でもある。かつては患者や病や薬を、そしてここに住むようになってからは、目の前に現れる人間ひとりひとりや、自分そのものを、じっくり観察した。

 ヒトは、ヒトにとって最も身近な薬である。そばにいるだけで影響を受け、何かしらの作用が起こる。そして、付き合い方によっては、中毒性の高い毒にもなる。

 たまこはこれまで意識せずにも、観察することで、人と、自分なりの距離を保っていた。

 それが今や、傷つけ傷つく間合いに入ってしまっていた。星雄という毒に侵され始めていた。
 

 星雄は、たまこの部屋を出るとそのままステルラハイツを飛び出した。
 ムシャクシャする気持ちをなだめる何かを求めて外に出たけれど、ここは自分の知っている街ではないとすぐに気付く。
 
 夜は星雄の知っているよりも暗く広く静かで、見上げる空には闇を埋めるようにバラバラと大小さまざまな星がちりばめられている。
 周りを見れば、人っ子一人いない空間が広がり、暗闇へと吸い込まれていた。一瞬身震いがする。怖かった。
 それは、これまでのほとんどを、狭苦しい街の裏手で喧噪とともに暮らしてきて、恐れなんか感じたことのない星雄にとって、はじめての感覚だった。
 
 暗闇に向かって、田んぼの中を縦横に仕切った農道を歩いてみる。

 田んぼの畦では、カエルの群れが押し寄せては返す波のようにグワグワと合唱している。カエルたちは畦の四辺で、あちらが盛り上がればこちらが静まり、こちらが盛り返せば今度は向こうが、というように、整然としながら熱狂的に、鳴き声の競演を繰り返していた。
 それは、いつか空の母親が聴かせてくれた東南アジアの伝統舞踊の音を思い出させて、星雄は興奮する。

「録音してえ。」

 体の隅々から電波が起こり、こうなると星雄はもういてもたってもいられない。
 目は寄って小鼻は膨らみ、細かく指先を擦り合わせながら、首を左右に揺らし、足はぴょんぴょんと地面を蹴って飛び跳ねて、おかしな踊りか狂人かという動きをする。

 小さな頃から興奮するとどうしようもなく体が勝手に動き出す。星雄を観察する大人は、いつでもそれになんだかんだ病名をつけたがり、そんな時ほど反発してわざと狂った素振りを見せた。

 いつしかそれがわざとだったか、それとも自分は本当に狂っているのか、わからなくなってきた頃、一本のギターを渡された。
 教える方がビックリするほど上達するのは早く、自分はもとより才能があったのだと鼻高々になるも、そうするとギターを弾くのに飽きてしまう。

 そこからはいろんな楽器を触るようになった。楽器を持ち、演奏するようになって、そのどうしようもない衝動は音の中に組み込まれて昇華した。
 そして、楽器を弾いてばかりの星雄の元に仲間が集まり、共に音を鳴らすようになると、その快感は一層に強まった。それは星雄にとってエクスタシーにほかならなかった。

「あーあーあーちくしょう」

 やっぱり自分の楽器を持ってくるのだった。こんなに触らないでいるのは久々のことで、思い出すと指先やいつも抱いている体がうずく。そもそもここにこんなに長居する気はなかった。片付けごとを終えて、ちょっと日本ってものを感じたら、すぐに帰るつもりだった。地元では音を共にする仲間が自分の帰りを待っている。軍資金を持って果てしない音の旅に出るのだ。それなのに、ここに来て、初めの目的を果たさないまま、もうひと月近くが過ぎようとしている。相棒であるはずの空は、このところあのオレンジ髪のねえちゃんの方ばかり見ている。軽々しく自分の意見を口にしない空は、何か大きな決断をする前にはよりその傾向が強くなって、決めたとなるともう迷いはしない、信頼できる相棒だった。あいつとももうお別れだ。執着はない。どんな時でもお互いにそれぞれの在り方を尊重するのが、二人の間の暗黙の了解だった。自分は、行こう。


 星雄が心を決めた時、急に足元に明かるくなり、見上げると東の山際にぽっかりと丸い月が浮かんでいた。それは周りに集まったウロコ雲を透かして、こちらに強い光を放っていた。

 星雄はそれが自分の決心を後押しする兆しだと受け取った。清々しい気持ちで月を見つめていると、本当に思いもかけなく、ポヤンとそこにたまこの顔が浮かび出た。

「うわっなんだよ。」

 星雄は面食らって一歩のけぞり、もう一度明るい夜空を見上げたが、もうそこにおかっぱ頭はいない。

 星雄は胸がドキドキしていた。しかしこの高鳴りは、恋とかときめきとか、ハートマークの付きまとう甘ったるいものではない。
 
 実際に星雄は女性に対してそんな感情を抱いたことはなかった。
 
 自分を産んだままにして消えた顔も知らない女、時々現れては消える母のような女、気ままに現れてはまとわりつく女、小さなことで気分を概して泣く女、星雄のことを何でも知っているような顔をして色々と世話を焼く女、どの女も星雄にとってはただ過ぎ去って行く景色のような存在でしかなかった。
 周りの友だちが恋人を作ったり連れ合いを見つけたり、そして生活を変えて行くことに対して人々が「おめでとう」と声をかけるのを、星雄は冷めた気持ちで眺めていた。

 こと女を抱くに関しては、楽器を弾くのと同じように、才能があると自負していた。
 オヤジゆずりと噂されるが、その先は違う、と星雄は言いたい。オヤジのように、どの女とも切れずにズルズル続いた関係はいらない。

 それこそ街の浮浪児に毛が生えたくらいの頃から、その整った顔立ちと身にまとった独特の匂いに吸い寄せられるように、星雄の周りにはいつでも年齢様々な女が付きまとっていたから、星雄はその女たちと試すようにやりこんだ。

 それも、覚えたての幼い間だけのことで、楽器を弾くようになってからは、ほとんど一人の寝床につくことが多かった。

 それは音を奏でる快感に夢中になっていたこともあるが、ひとたび夜を共にすると、女たちがみんな内心欲しがってばかりの怪物のように思えてしまうのが、いつでもひどく堪え難かった。そのせいで、少しでも興味を抱いた相手とは、なるべく肉体で交わる関係に陥らないよう、どこかで警戒さえしていた。

 あいつは。星雄は改めてたまこのことを考える。


 たまこは、鏡台の前でおかっぱ頭に櫛を入れている。

 子どもの頃、母が散髪用の先の尖ったハサミでパッツリと切り揃えてくれたのとおなじに、前髪がひたいの丸みに沿ってゆるやかなアーチを描いている。ゆっくり、丁寧に、櫛を入れると、小さなキノコのように整えられた、豊かな黒髪の全容に、つややかな光がうつる。

 星雄の頬を打った手が、まだ表面に電気を帯びているように感じられる。
 自分の思う通りにならないから相手を打つ、そんなのはアル中のダメ亭主あたりがすることだと決めつけていたのが、思いもかけずスパッと自分の手が出たことに、たまこはむしろスッキリしていた。
 星雄と出会ってからの自分は、これまで自ら抱いてきた自分のイメージをことごとくぶち壊して、中にあるものをすべて吐き出す。それはたまこにとって、日々の掃き掃除のごとく、気持ちのいいことだった。

 満たされた感覚でベッドに横たわる。
 このベッドの上で、星雄とは、初めて交わった晩から3日の間、ひたすらに求め合った。

 始めこそ身勝手な物言いをした星雄も次第に無口になって、たまことの身体を交える行為にのめり込んだ。
 
 そしてその時間は終わり、その後は今日まで、時に抱き合ったりキスをしたりはしても、深く体を交わらせることはなく、ただ一緒に横になって眠った。
 たまこにとって、異性とベッドに居ながら交わらないのは初めての経験だったけれど、星雄と共にそうあることは、全くもって自然なことだった。

 星雄は起きているほとんどの時間を音楽を聴くか誰かが置いていったギターを弾くかに熱中して過ごし、たまこは家のことをしてご飯を作って、みんなで一緒に食べた。

 空が、楽健法という二人でするヨーガを教えてくれた。寝る前に、みんなで互いを足で踏み合うのが日々の日課になった。

 そして、たまこと星雄は、少年と少女のように、手をつないで眠った。その間たまこはほとんど夢も見なかった。

 口の悪い星雄と口下手なたまこの間で見えない衝突が起こることは度々あったにしろ、いつでも少しの時間とともにそれは昇華した。一緒に居るだけで満たされていた。


 ただ同時に、そんな日々が長くは続かないということも、肌で感じていた。

 それでも、今夜ももうすぐ帰って来る星雄のために半分ベッドを空けて、たまこは眠りにつく。


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