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第13回 ペリーの黒船来航と,いとあやしき病

Matthew Calbraith Perry(1794〜1858)

Matthew Calbraith Perry(以下,ペリー)の黒船来航は日本の歴史でも大きく取り上げられているが,実はそれ以前にも外国の船は日本を訪れている。例えば,1792年,蝦夷地に来航したのはエカチェリーナ号(ロシア)である。その当時,江戸幕府(第11代将軍徳川家斉)は「日本の窓口は長崎だからそっちへ行って」と長崎への入港証を交付してロシアへ帰国させている。1804年には,再びロシア使節レザノフが長崎の入港証を持って来航している。このときはレザノフを半年ほったらかした挙句,入港証を取り上げ,ロシア皇帝の親書の受け取りも拒否して追い返してしまう(このためロシアから択捉への攻撃を受けた)。その後,1808年にイギリス軍艦「フェートン号」,1837年に浦賀に来航したアメリカ商船「モリソン号」など,複数の外国船が来航している。このような多数の外国船の来航は江戸幕府に国の維持や防衛について早急に対策しなければならない危機感をもたせた。そりゃそうだ,北からロシア,南からイギリス,東からアメリカが大きな船でじゃんじゃんやって来るのだ。ペリーの浦賀への来航は実際のところ1853年7月8日であり,ずいぶん後のことである。このときペリーは,日本の測量とアメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡し,10日ほどで去っていった。その後すぐに第12代将軍徳川家慶が亡くなったことを聞きつけたペリーは,1年後という約束を反故にし半年後に6隻の船で来航し,1カ月の協議の末,日米和親条約を結んでいる。

本格的に日本とアメリカで貿易を行うようになると,原因不明の嘔吐と下痢でやせ細る「いとあやしき病」も出現するようになった。コレラである。ペリーの乗っていたミシシッピー号は1858年に再び長崎に来航しているが,この際に船員からコレラが長崎にもたらされたのである。コレラはあっという間に日本全土に広まり,鎮静化に3年かかったとのことである(なんだか今のコロナ感染のようだ…)。当時のコレラの致死率は48%であったとされる¹⁾。

ちなみにペリーは3回目の日本訪問前に体調不良でミシシッピー号を降りている。彼は身長190cm以上の非常に大柄な人物で,晩年はアルコール障害や痛風,関節リウマチ(rheumatoid arthritis;RA)などに悩まされていた。彼は日本で歓待を受けたときに,肉のない食事や淡白な味付け,種類は多いがどれも量の少ないことから,「日本にはもっと美味しいものがあるんじゃないか,出し惜しんでいるのでは?」と言ったとか言わないとか。ペリーも日本人が鯛を好むことを聞きつけて鯛料理をふるまったりと,貿易を開始するにあたりいろいろと腐心しているのが窺える。ペリーの罹患したRAは,紀元前2900年頃のエジプト人の骨や古代インディアンの骨にも発見されており,古くからある疾患である。日本人でいえば夏目漱石がRAに罹患している。面白いことに,18世紀以前にヨーロッパやアジアに RAを発症していたという人骨が発見されないことから,なんらかの環境変化(産業革命など)や感染(大航海時代の新大陸発見などによる)などが RAを作り出したのではないかという説もあり,興味深い²⁾。

文献
1)三谷 博.ペリー来航〈日本歴史叢書・新装版〉.吉川弘文館:東京;2003.
2)金沢城北病院 リウマチ科.リウマチの歴史を振り返る
http://jouhoku-rheumatism.com/images/210305/doctor.pdf

(『関節外科2023年 Vol.42 No.8』掲載)


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